カバンの中身について、というのはちょうど手頃な話の種だと思っていたのだが、いつのまにか一週間が経過して、「今週のお題」ではなくなってしまった。その前のお題は、たしか本に関するものだった。本ならば、いくらか読んでいるので何か話すことができそうだと思ったのだが、それも話すことなく、一週間が経過した。出されたお題について書くことは、自分の中の、思わぬ考えを見つけられることがあるので、たまにはそういうのも悪くないと思うのだが、考えているうちにお題が変わることばかり。今週が終わった。もう終わってしまった。
断想
無知な人間は、その人がしている仕事の種類からではなく、それをどのようにしているかからわかるのだ、と言った。さらにまた、朝、目を覚ましたとき、ふと自分も仕事台に向かってすばらしいテーブルを作ってみたくなることがある、とも言った。「何を恐れているんだい」と彼はぼくに言った、「物事はやりながら覚えるのだよ。その意志さえあればいいんだ……まちがっていたら、ぼくを直してくれたまえ」1
物事はやりながら覚えるべきだ。物事はやりながら覚えるべきだ。私は恐れているのか。私はふと、私は何か素晴らしい仕事をやるべきであると思うことがある。そしてそのとき、私にはそれができる、という自信もある。あるのだが、私はそれで実際に何かをしたことがない。私は恐れているのだろうか。そもそも、そういったときの、私のやる「仕事」というのがなんであるか、という点から問い直す必要があるのかもしれないが。
断想
生きるということは、常に引き裂かれているということ。その痛みが、生きることそのものであるなら、やっぱりそれは死以外に解決してくれるものはない。だから、死は救済であると感じるのを、視野の狭さだとか、ペシミズムであるとか、自殺の肯定であるとか悪しき哲学だとかなんとか言うのは的外れだ。死は、ある意味では救済だろう。しかし、救われたって何にもならない。救いを求めて自殺をするのは、救われることの無意味さについてまで考えが至っていない、性急さによるものだ。
とかなんとか、まったくよくわからんことを考える私自身、救われることの無意味さについて考えたことはない。つねに自殺を考えている。とにかく、私が抱えている問題のいくつかは、死によってでしか解決しないように思われる、という話だ。
私は自分の考えを全き無論理のうちに持ち出すことがよくあるが、それが私の無意識の中でどのような論証を経てきたのか、全く見当がつかないのだ。だから、それに何とかして後付けの説明を加えようとするのだが、うまくいったためしがない。しかし、そうやって薄めてやらないと、ちょっとあくが強い。このまま、私の言葉を真に受けてしまった人が出てきてしまっては大変だ。いやまあ、これを読んでいる人がどれだけいるのかって話だけれど。この文章で私が言いたかったのは、最初の2文だけだったのだ。しかしそれだけだと単なる自殺予告かな、とか、かまってほしいのかな、みたいに思われてしまいそうで、それは嫌だから、そのあとに言い訳のようにいろいろと適当なことを並べ立てている。私の記録はそんなのばっかりだ。私は、ふと思い浮かんだことを記録するために「断想」と名の付く記録をつけ始めたのだが、いつの間にか、この「はてなブログ」に書くようになる前から、誰に遠慮しているのやら、一番言いたかった一言に無駄な弁明を付け加えたり、そもそもそれは言わずに、その周辺をうろうろしているような文章を書いてみたり、さらには、全く関係のないものを書いたりなんかしていた。
さて、元来の私の意図をくみ取るなら、これはもう「断想」と題するべきものではなくなってしまっているのだが、あえてこの記録もより新しい慣習に倣い「断想」としておこう。しかし、今後どうあるべきか、考えておく必要はあるだろう。明日にでも。いや、明日は仕事があるので明後日にでも。
断想
12:14 PM
1
本を読もうとしたのだが、ここは屋根があるのに風が吹いているせいで、雨が入ってくる。すこしくらい濡れても構わないが、すこしくらいではすまなそうだったので、やめた。
2
何かを書こうかと思った。が、気乗りしない。いつものことだ。いつも、私は何かを書くことに乗り気ではない。
3
人間、命が有限であるからこそ輝けるのだ、なんていう人がいるが、そんなわけがない。不死であることが可能なら、そのほうが良い。といっても、べつに生きているいことがすばらしいとは思っていないし、長く生きることがいいことだとも思わない。ただ、いくら誤魔化したって、死ねば終わりだ。一瞬の輝きやら、それが残していった残像やら、そんなものが一体なんだっていうのだ。残像は錯覚に過ぎないし、その錯覚も、時間とともに消えていく。消えてしまったら、死んでしまったら意味がない。それを何か誤魔化して、いいこと言ったふりをしても無駄だ。
4
死は生を際立たせるものはないし、また、どんな意味であっても救いではない。死は生きるというプロセスの完了形である、なんて言っていた奴もいた1が、なんにせよ、死についてのいかなる見解も役には立たない。死がいったいなんであれ、それが分かったとして、なんの役にも立たない。生きることの意味を問うたところでなんの役にも立たないことと、その無意味さは似ている。
5
近いうちに、全てが終わる気がしている。ここ数年、ずっとそんな気がしている。いや、もしかすると生まれた時から、ずっとそんな気がしている。終わるのなら、さっさと終わってくれ。なんて思ったり、いいや、まだ終わるべきときではない、なんて思ったり。いずれにせよ、何かが終わる気配がしている。その気配とともに、私は時間を過ごしてきた。しかし不安はない。もうすでに終わっているからかもしれない。私はもう終わりだ。終わりならよかったのに。私はまだ持続している。
私はまだ持続している。
断想
今日は一日、歩かなかった。
歩きながら書かれた文章でなければ読む気がしない
ニーチェはそんなことを言ったらしく1、私も、同じように思うことがある。
この記録は、おもに私が読むためのものとして書かれている。そうなると、歩くことのなかった今日のような日の記録は、記録されるべきものなのだろうか。私は私が歩くことなく書いた文章を、読もうという気が起きないかもしれない。読まれない記録が、記録される必要は、あるのだろうか。
なんてことを考えたけれど、読まれるか読まれないかとか、読む値打ちがあるものかどうかとか、そんなことが前もって分かるはずがない。それに、その記録が読まれないとしても、記録をつけるということ自体に価値があるようにも思う。
ぼんやりとそう思うけれど、それ以上思考の中へ入っていくことが、今日の私にはできない。
ま、こんなことはよくあることだ。
考えごとを途中で持ち越したいときにも、そのことを記録しておくことは役に立つ。途中まで考えたことを記録したとして、ゲームのセーブデータを読み込むみたいに、後日まったくの続きから始める、なんてことはできないが、それを見て、同じことについて考え直すことはできる。何度も同じことを考えていれば、いつかはなにか、出来のいい説明がつけられるようになるんじゃないか。
つまるところ、記録することそのものの価値のひとつは、そのあたりにあると思うのだが、どうなんだろうね。
べつに書き始めたとき、意識していたわけではないけれど、この記録は上の記録の考え直しになっている。