白昼夢中遊行症

断想

1ヶ月くらい、書店に行くのをやめてみようと思う。書店へ行ったところで、そこになんの本があるのかは分かりきっている。行けるところにある書店になんの本が置いてあるのか、どういう本が置いてあるのかは、だいたい頭に入っている。はっきり言って、時間の無駄である。無駄をすべて切り捨てるべきである、とは言わないけれど、というか、無駄であるという理由よりも、あるとき、いつものごとく書店内をふらふらしていて、ふと「これは違うな」と思った。それからも、わりと長いこと、書店で時間つぶしをしていた。というのも、それ以上に楽に時間をつぶせる方法を知らなかったし、書店をふらつくという行為に依存していたというのもあるかもしれない。いずれにせよ、当分の間はやめることにする。そうすることによって、なにかほかの、いいことをするようになるかもしれないし、そんないいことはないかもしれない。しかし、とにかくそうすると決めたので、そうします。本が欲しいときは、Amazonかなにで注文すればいいのだ。あるいは、書店に金を入れたければ、書店で取り置きして貰えばいい。ただ、そのときに書店にとどまることはしない。そうするのが難しければ、やはりAmazon、ということになるだろう。

断想

そういえば、はてなブログ

↑こんなのやってて、日記ならおれも書いてるから、試しに応募してみようかと思っていたのだが、いざそのつもりで今年の日記を見返してみると、手ごろなのがなかった。なので「10月中に」とか思っていたのだが、いつのまにか受付終わってやんの。

自分の日記が載るとしたら、どんな日記の前で、どんな日記の後に置かれるのだろうか。ということを知る機会が失われたことが悔やまれる。

でもまあ、そういうものだ。忘れてたということは、どこか本気が欠けていたということだ。私は、なにかに本気になったことがない。本気になったことのない人間の人生というのは、そういうものだ。だから、私の日記の前にも後ろにも、なにもないのが相応しい。

とかなんとか言って、とくになににも効いていないオチのようなものをつけて満足する。

そういうものだ。

断想

今日、虫歯治療のために歯科医院へ行った。午後2時の予約で、直前に歯を磨くのも面倒、というかそんな機会を取れそうになかったので、朝起きてから、それまでのあいだ、食べ物は一切口にしなかった。普段から朝食に固形物は食べない人間だが、毎朝飲んでいる牛乳も、今日は飲まなかった。なので、空腹を感じていた。

治療の際に麻酔が使用されたため、口が痺れて食事を取ることができたのは夕方になってからだった。すき家で豚蒲焼と刻み葱と大蒜が乗った米を食べた。店員同士の会話(新人へのトレーニングをしているようだった)から、いままで「カラトリー」だと思っていたものが「カトラリー」だったことを知る。これまで「カラトリー」と口に出して言うことも、文字にすることもなかったので、恥をかくことなく間違いに気づくことができた。しかし、こうした思い違いを、私はあといくつしているのだろうか。それと気づくまでは、それを数え上げることはできない。気づけばひっそりと直すので、思い違いをしていたことは忘れてしまう。

カバンの中に、おととい買ったスナック菓子と、昨日買ったドーナツが入っている。食べてしまわないと、という使命感に駆られて、それらを食べる。食べてばかりだ。そのあと、さらに巻き寿司とじゃがいも菓子を買って食べ、ねぐらに戻るとまた、味噌汁やらなにやら食べる。食べてばかり。私には、それ以外にないのか?

それ以外にあったことといえば、とくにない。私は、まったくの無意識に書店に入ることもやめてしまわなければならない。そこですることはといえば、本の背表紙を眺めているだけで、そんなのは時間の無駄だ。なんの新鮮味もない。決まりきった本棚の、決まった段を眺めるばかり。新刊が出たときに、すこしだけ様子が変わるだけで、それだけだ。まったく知らない本棚を眺めるでもなし、買わないような本を立ち読むでもなし。ただ、時間つぶしのためだけに、立ち寄る書店。慣れたものの安心という毒にすっかり侵されているのか、私は。こんなことはやめてしまわなければならない。同じように、無印良品の店舗で無印良品の商品を眺めることなども。

私はこうした安心に引き寄せられて、沈み込んでいく自分を大人しく見ているわけにはいかない。私は、私自身の行末に無関心であり、しかも無関心であることを自分で覆い隠そうとしている。私は、少なくとも私自身に関しては、はっきりと目を見開いていたい。できることなら、あらゆる物事に対して、はっきりと目を見開いていたい。

私は私であることの不確かさをもっとしっかりと見つめようとしないといけない。

断想

ここ最近は手癖で書くことばかりで、自分自身の書いたものに飽き飽きしてきた。それに、そうした書きやすい書き方に身を任せ過ぎて、自分がなにを話したいのか、ということに目を向けることもなかった。

それなら黙っていたほうがよい。

黙っていた方がいいのだ
もし言葉が
言葉を超えたものに
自らを捧げぬ位なら

谷川俊太郎「もし言葉が」より1

なので、しばらく黙っています。


  1. (暗くて本を読めないので、あとで文献情報を入れます)

断想

何気に続いていた毎日投稿が、これで途切れた。ざまあみろ。

書きたいことなら、いくらでもある。しかし書くためには、時間が必要だ。自分を見つめる時間が必要だ。しかし、それが今の私には欠けている。今後そんな時間が取れるとも思われない。このまま、すべての時間が過ぎてしまうのは嫌だけれど、自分を見つめようとすることをやめてしまおうとは思わないけれど、我慢しないといけない。我慢しないといけないのだろうか。いずれにせよ、いまのところ、なにもできそうにない。

断想

いろいろあって、いろいろとしないといけなくなった。泣き言も言っていられない。まったくもって、前向きな気持ちではいられないけれど、前は見ないといけない。道路を横断するときは、左右も見ないといけない。

生きるとは、終始引き裂かれることだ。この痛みには、いつまで経っても慣れないものだ。いや、私はこれに慣れてしまわないようにしている。慣れてしまっては、私は生きるに値しない。そんな気がしている。

いや、生きるに値するとかしないとか、そんなこと、些細な問題だ。べつに、私の人生に誰がどんな評価をしようとも、それは私自身の人生の価値に何の影響も及ぼさない。というか、価値なんてのが、いかにも人間的な尺度でしかなく……いや、私とて人間なのだし、人間の尺度だって使って差し支えはないんだけど、まあ、そんなことであれこれ悩むのもほどほどでいい。

とはいえ、自分自身が納得できること。これだけは譲るわけにはいけない。そのためにも、私は引き裂かれるときにも、自分の意識を明晰にもっていたい。痛みのある時こそ、はっきりとその痛みを感じていたい。それが無意味だとしても、私にとっては何か、大切ななにかなのだ。

断想

今日、歯医者の定期検診があったのだが、CoとC1の虫歯がいくつかあるといわれてしまった。C1は治療が必要とのことだったが、次の予約を取る際、なぜか治療の案内はされず、3か月後の定期健診の予約を取るだけだった。会計を済まして次回の予約を取り、建物から出ていくまでの流れで、言い出すタイミングがなく、改めて予約を取りに行くのも億劫だ。こちらが損をするのみと分かっていても、何もやる気が起きないのがおれだ。そんなおれにできるのは、せいぜい次回の定期健診までの間に虫歯を進行させないように、気持ち丁寧に歯を磨くくらい。しかし、疲れきっていてそれができなかったから、虫歯ができたのだ。それは無理なこと。まったく、うんざりしている。いつだってうんざりしている。うんざりすることばかりだ。いや、何かがおれをうんざりさせるのではなく、おれが何もかもにうんざりしているのだ。だから、虫歯治療の予約が取れたとて、おれはうんざりしているだろう。そんな人生、うんざりだ。