白昼夢中遊行症

やはりこれは日記ではない

日記って、いったいなんなのだろうか。

わたしはここに日記を書くつもりでなにやら書いているのだが、読み直してみると、どうも日記ではないように見えてしまう。何かが足りないか、もしくは何かが余分なのか、あるいは何かが足りなくて、代わりに何か余計なものがあるのか。いずれにしても、何かが間違っているように思われるのだ。

欠けているもの。心当たりがひとつ。わたしの記録には、出来事が欠けている。日記とは日々の記録である。記録される日々を満たすのは、そこに起きた出来事だ。日々というものはいくつもの出来事によって構成されていて、日々の構成要素である出来事を記録することにより、日々が記録され日記となる。とするならば、日記とは出来事の記録である。しかし、わたしの記録を見てみると、出来事にあたるものがほとんど見当たらない。

たとえば、昨日の記録を見てみよう。その日の出来事にあたるのは、最初のひとことだけだ。

今日、少し先にひとつの別れがあると知った。

——私のことばかり - 白昼夢中遊行症

しかも、このひとことは最後に付け足したものである。付け足した理由も、これでは日記ではないように思われたからである。そのときなぜ日記ではないように思われたのかといえば、その記録全体を見て、これを今日という日に結びつける縁がないように見えたからである。つまるところ、その日の出来事についての言及がなく、そのためにふわふわと浮いている取り留めのない思いと見分けがつかなかったからである。しかしながら、その記録はやはり、その日のものであるという点に意味があったので、そこに根を下ろさせたかった。そういうわけで、最後にその日の出来事についての言及を付け足したのである。

私はあえてそうすべく努めなければ、出来事を欠いた記録をつけてしまうことがほとんどである。たとえば、もうひとつ前の記録はどうか。ここから何か、その日あった出来事を汲み取ることができるだろうか。私にはできない。しかしこの記録も、私にこれを書かせた出来事がある。あったはずなのだが、肝心なそれは記録されず、その当時に置き去りにされてしまった。結果として、これを日記と呼ぶには無理があるように思われる。1

とまあ、私は日記を書いているつもりなのだけれど、出来事についての記述が足りていないので、日記に見えないというか日記と言えないようなものばかりになってしまうのである。

そして余計なものもある。それは過去にも何度も言ってきている。つまり、アイから始まるセンテンスである。なんだそれは。いや、なんかふと思い浮かんでリズムがいいから言いたかっただけだが、「私は」と一人称で始まる文章が多すぎるのだと思う。それも、述語には決まって「思う」とか「感じる」とか「考える」とか「であるべきだ」とか、とにかく行動を伴わず、したがって出来事を引き起こさない言葉ばかり。私はずっと私の中に引きこもっている。そして、私は出来事の中に身を置かないので、時間の流れがなく、同じことをぐるぐるぐるぐる考えて、いや、思いを巡らせるのみ。そうなるともう、何かふんわりぼんやりとした、日記ともエッセイとも言えないような、なんだかよくわからないが単調な世界観の開陳だけが続く。そうしたものにはすっかり飽き飽きしているので、私はつねづね「私は」というのをやめてしまうよう自分に言い聞かせるのだが、なかなかうまくいかない。すでにこの文章も「私は」に侵されてしまっている。

とまあ、結論として、私が日記を書けないのは、何かが足りなくて、かつ余計なものがあるから、ということになる。足りないのは私を取り巻く出来事であり、余計なのは「私は〜思う」といった行動を伴わない私についての文である。

換言すれば、足りないものを充足させ、余計なものを削るよう努めればもっと日記らしい日記を書くことができるのだろう。しかし、そう試みたことは過去にもあったが、どうも書いていてしっくりこない。結局のところ、無心になって書くのが性に合っている。たまにいつもと違う書き方を試すのも悪くはないだろうが、そればかりとなると負担が大きくなり、何か書こうという気が起きなくなる。

そういうわけなので、私はこれからも日記に見えない日記のような何かを書き続けると思う。


  1. ちなみにこの記録にもまた、私にこれを書かせたきっかけとなる出来事が存在しており、そのために私はこれを日記として書いたのではあるが、その出来事にまったく言及しないがゆえに、やはり日記に見えなくなってしまっている。

私のことばかり

今日、少し先にひとつの別れがあると知った。

思えば、だれかとちゃんとした仕方で別れるということを、私はしたことがなかった。

去っていく人を見送るときに、その姿が見えなくなるまで手を振ることなどなかったし、私が去るときはいつでも、前もって誰かにそれを告げることなく、夜逃げのように去っていった。

そもそも「別れ」という言葉に値するほどの人間関係を結んだことさえほとんどない。だから、私には来たる別れというものを、受け入れるべき心構えというものが、すっかり欠けていた。

私に誰かを見送ることができるのだろうか。私はちゃんと別れを告げることができるのだろうか。私は、このような私中心のものの見方を、排することができるのだろうか。そして誰かの幸せを、心から願うことができるのだろうか。

私は溢れた人間だ。私は拒絶された人間だ。私は必要とされなかった人間だ。だからこそ私は、今いるこの場所で、私を全うするべきだ。

そうなのだろうか? もし、もう少し巡り合わせが違っていたら、これと真反対のことを考えていたかもしれない。私は偶然によって組み上げられており、あるべき姿というものはない。私は拒まれなかったかもしれない。そうだったとして私は、今いるこの場所、そこにあるものや仕事、そして人々を大事にしようと思っていただろうか。私は、どんな場合においても、誰かの悲しみを理解し、誰かの幸せを心から願えるような人間でありたい。しかし、私はちっともそうではないのだ。困ったことに。私は今でさえ、激しい憎しみに駆られている自分があることに気がつく。そして私はまた、私のことばかり話していることに気がつく。私はやめなければいけない、なによりもはじめに。「私は」などと言うことを。

だめっぽい

私はバラバラだ。

私はもう、ダメだと思う。とてもゆっくりとした歩みで騙し騙しやってきたが、騙し騙しということは、もともと無理なことを、方々に嘘をつきながら誤魔化してきたということ。この嘘が本当になるとは思えない。わたしは頑張れない。「まだ」どころか、これまでも頑張っていたわけではないので、これからだって頑張れるはずがない。

正直なところ、いまやっていることのせいで、他のところにも色々と破綻をきたしているので、もうこんなことはやめるべきだ。夢をあきらめて現実を生きようではないか。

いや、現実にもわたしの居場所はない。わたしはもうダメだ。わたしはバラバラだ。言っていることが、その日その日どころか、一言ごとに異なっている。そしてその全てが嘘ではない。いや、嘘かもしれない。白黒つけるのが、間違いか?わたしは何を、言っているのか。

このままではダメそうなので、ダメダメだ。もう、まともに文を組み立てることもままならない。元からまともにできた試しはないけれど。本当に、ダメだ。嘘なのだ。ここからして。哲学も論理もありはしない。観察力も協調性も好奇心もない。わたしは、乗り越えた人になるべきではない。嘘でここを乗り越えたところで、それはわたし自身に対する裏切りだし、それにいつか、やっていけなくなる時がくる。裏切られるようなわたしなんてあるのか、わからないが。

もうやめておこう。

今日は酒を一滴も飲んでいないのに、悪酔いのような胸焼けがする。いろいろと、心当たりはある。もううんざりだ。身体があるということも。

いや、もうやめておこう。

断想

疲れた。無意味なことを、続けることに、私はもう疲れてしまった。

といって、私はほとんど何もしていない。ただ疲れてしまう。そして、この疲れが、なにか成長とかそういうものに、繋がるとは思えない。そもそもわたしは自分が成長するなどと思えない。

こうした徒労のために、さまざまなものを押さえつけることにも、意味があるとは思えない。押さえつけることをやめたからとて、何かしたいことができるわけではないけれど。そもそも、したいことなんてあるのだろうか。

とにかく、わたしはもう駄目だと思う。もう、というか、ずっとわたしは駄目なのだが。

辛いのは、つねに「何者か」で在らせようとするものどもの中に、間違って身を投じてしまったからだ。これはもう、早々にやめるべきだ。

改めて思う。わたしは何者でもありたくないと。わたしは、いかなる形であれ、演じることをしたくない。とりわけ、それによって人を騙そうということをしたくない。そうさせようとするものには一切近寄りたくない。

わたしは、一人称を用いたくない。なので本当は、こんな文章もクソだ。「わたしは」と繰り返すごとに、わたしは得体の知れないものになってゆく。「わたしは」と繰り返すごとに、わたしから自由がこぼれ落ちてゆく。「わたしは」と繰り返すごとに、わたしからわたしが切り落とされてゆく。

私はいつも世界のものなのに、まるで私のものであるかのように、私を思い通りにしようとする。私に複雑な意味を背負わせようとする。私の頭の中に、いくつもの命令が飛び交い、私はそれに従おうとするのに忙しくて、世界に対して無関心を貫いた。

いまはまだ、そこにいるのだが

わたしを悲しくさせるのは、わたしという人間の薄情さ、とでもいうのだろうか。

いまの環境を離れて、いまの人たちと別れても、寂しいと思うのはせいぜい長くて1年、いや半年くらいのもので、時間が経ってしまえばそんな寂しさはどこかへ行ってしまう。

いくら、いまの人たちを愛し、大切に友情を育んだところで、状況が変われば程なくして他人となる。そんな経験はもう、この短い人生でも、何度となくしてきた。別れた人たちのことを、たまに思い出し、懐かしむことはあれど、焦がれることはない。それくらいのものだ。

わたしは、そんな人生のそっけなさが悲しくて、それでも涙の一滴も零れぬことが、たまらなく寂しい。

されど人生は過ぎる。見えなくなった人たちに目を凝らす。いずれ見えなくなる人たちの、影に手を伸ばす。今はまだそこにいる人たちに、わたしはどうするのがよいのかわからず、おろおろする。そして年月と人々が過ぎ、かつてあったものだけがわたしのものとなる。

断想

生きづらさに言葉を与え、それによって気が楽になるなら、それは良いことだ。

しかしながら、何でもかんでもその言葉に負わせて、自分で戦うことを忘れてしまったら、それは無益どころか有害だ。

あくまでも、戦い続けないといけない。たとえボロボロになって、もう生きていけないと膝をつき、這いつくばっても。

とはいえ鬱は甘え、ではない。鬱は鬱だ。そして甘えは甘えだ。前者は医師によって診断される病気であり、後者は生きる姿勢の問題だ。鬱であり甘えている人もいれば、鬱であり甘えていない人もいれば、鬱ではないが甘えている人もいれば、鬱ではないし甘えてもいない人もいる。

鬱であるにせよ、ないにせよ、甘えた生き方は捨てるべきだ。戦いをやめることは、自分で生きることをやめることであり、自分で生きることをやめるということは、もう死んでいるのと一緒だ。死ぬ前に死んでしまうくらいなら、死んでもいいからそれまでは生きたい。

ひさしぶりに本を買った

死にたくなったら、本を買うといい。それほど長くない、長編小説を一冊買うといい。静かな、美しい本を買うといい。どこへでも持っていけるような、小さくて軽い文庫本がいい。それを読むも読まぬも自由だけれど、とにかくそれを持っておくと良い。それが私やあなたを生に繋ぎとめるのだ、とは言わない。それはむしろ、冥土の土産というやつなのかもしれない。とまれかくまれ寂しいものだ。生きるも死ぬも、寂しいものだ。その孤独にふさわしい、一冊の本を餞とするがいい。

なんて思いながら、昨日一冊の本を買った。およそ半年ぶりくらいに書店へ行って。ここ数日、何かあったわけでもないけれど、死んでしまいたいという思いが再燃している。ぼんやりとそう思うだけで、実際に死ぬことは、今回もないだろう。それは油断かもしれないけれど、私には覚悟というものが足りていない。なので、積極的なことは何もしないだろう。

とはいえ死にたい。それが一番いいはずだ。という思いは間違いない。わたしはなにくそと思うことのない人間だ。生きていられなくなったら、死ぬのだろう。その覚悟がないから、なるべくそうならないように立ち回り、その度に死にたいと思うけれど、あえてそうしない限り死ぬことはない状況が続くだろう。そのために、わたしは生き続け、このなんとも言えない苦しみも、私の生とともに持続するのだろう。

しかし、本を買った。なんの役にも立たない本を買った。なんの役にも立たない人間にふさわしい。なんの気晴らしにもなりはしない。しかし、それでも本を買った。金に余裕はないけれど、買った。わたしの命じるままに、わたしは本を買った。それがわたしをこの生に繋ぎとめるのではないのに。そんなことしなくたって、わたしは生き続けるのだというのに。とにかく一冊の本を買った。