白昼夢中遊行症

思案

灑涙雨

7月7日は七夕らしい*1。織姫と彦星は七夕の夜だけ会えるといわれるが、夜は半分が翌日で、7月8日はもう七夕ではないから、「七夕の夜」ではなくなるだろう。すると彼らが会える時間というのは本当に短いものだと思う。夜、いつからが夜なのだろうか。いまの…

人生、この悪しき習慣

この世に存在し始めて廿何年か、おれは成人して以来、自分の年齢に関心がなくなった。大学を休学して、まわりに同い年も居なくなったから、ますますわからなくなった。しかし、自分の年齢が分からなくて困ることなどそうそうない。 カミュの『異邦人』では、…

断想

ブログ管理画面の連続投稿日数が続いているのを見てしまうと、なんだかこれを途切れさすのが惜しいような気がしてしまい、特に何か書くことも見つからないというのに、何かを書かなければならないという気になってしまう。こうした強迫観念に駆られたとき、…

断想

運命論と決定論について少し前に(あくまで自分の理解の上での)違いを述べたが、私は運命について、もう少し何ごとかを述べたいように思う。私はそこで可能世界という道具を持ち出すが、ここではそれを「この現実世界における事物のあり方に何かしらの変更…

断想

昨晩は夜になっても気温が下がらず眠れなかった。夜が明けて気温が落ちてきた頃にようやく眠ることができた。6時間ほど経って目が覚めた。いつもならばもっと眠らなければ目覚めることはないのだが、その頃にはまた気温が上がり、とても眠っていられる状態で…

断想

今日一日、寝不足のせいで倦怠感に取り憑かれていた。睡眠不足の反動は、必ずしもその翌日にやってくるわけではない。しかし、必ずやってくるものだ。人によっては慢性的な睡眠不足でじりじりとパフォーマンスを落としていくそうだが、おれは比較的すぐに揺…

断想

ふと、運命論と決定論の違いについて気になって、本屋でそれらしい本を立ち読みした。それによると、およそこういうことらしい(とはいえ、所詮は立ち読みのつまみ読み程度の理解であるので、それが正しい理解であるかどうかは保証しないでおく)。運命論に…

眠れぬ夜がなくなって

そういえば、私が比較的コンスタントに日記を書いていた頃は、スマホとかでも文章を入力していたのだが、大学の授業がリモート形式になった影響などでPCで文字を入力する機会が増えたことで、今ではその習慣がなくなった。こうしたことも日記を書く頻度が落…

おれは自身の楽しみのために日記を書いている。

正直なところを述べると、おれが日記を書くわけとは、単に後から読み返してみるのが面白いからであって、記憶のためとか文章の練習とかいったたいそうなものではない。おれはそのことをしばしば忘れて、自己の同一性のためとか、文章力の向上のためとか立派…

「記憶のために書いている」というのは虚構である。

bounoplagia.hatenablog.com おれはしばしば「自分の記憶のために日記を書いている」などといったことを言うが、これは真実ではない。なぜなら、現におれが前に書いた日記から、いまのおれと連続した主体としてのおれを見いだすことができないからだ。過去の…

いつもどおり、外のことが分からない。

外のことが分からない。しかし、それがどうして異常事態なのかも、それの何が問題なのかも分からない。 確かに、この数ヶ月のうちに、世相はすっかり変わった。おれもおれで、外に出る機会はすっかり減ったし、実際に他人と顔をつきあわせる機会もなくなった…

このおれには、会いたい人がいるんだろうか。

——いない。 悲しいかな、おれには「抱きしめたい家族」も「じっくり語り合いたい友人」も「一緒にお出かけしたい恋人」も「愛を伝えたい憧れの人」もいないのだ。幸い、おれの家族は存命だから、存在していないというわけではないが、彼ないし彼女らを抱きし…

断想

2020/05/11 1:26 けさ、というより、起きたのは12時を回ってからだけど、久しぶりに記憶に残る夢を見た。最近は夢を見ないか、見たとしても夢を見ていたということ以上のことを思い出せないようなことが続いていたので、今日みたいなのは一年か二年ぶりくら…

断想

こうして、何か書こうとした途端に、書く内容をことごとく失念してしまう。いつも夢を見るのに、現実ではその想像力の一割も使えない。以前とくらべても私は文章を書く力を失ってしまったと感じる。原因は何か? 日記を書かなくなったからか、それとも人間と…

あれからもう一年がたったのか。

もうじき正月休みが終わる。去年は大学を休んでいたので今年の年明けがとても慌ただしいものに感じられた。とはいえ、思えば去年のほうが立て込んでいたのかもしれない。 去年の正月に祖父が死んだ。祖父が死んだとは言っても、長い間会っていなかったので何…

断想

私が世界に求めている世界のあり方にかかわらず、世界というのはいつでもその通りのあり方しかしない。自らの視界をゆがめれば、自分の思うとおりの世界が見られるのだろうが、それでも常に、この世界はある一通りのあり方でしかない。しかし、それと同時に…

断想

バイトをクビになったあたりから、おれは密かに自らに禁酒を誓っていたのだが、知らぬ間にまた日常的に酒を飲むようになっている。 酒を飲むこと自体が悪いのではなく、酒を飲むことが自分にとって意のままにできないことになっているということが悪いのだ。…

断想

そういえばもうすぐ今年が終わるのか。今年が終わるのかというのも不思議な言葉だ。今年というのはいつだって今年であることに変わりはない。それが終わるとするならば、「今年」と発言したおれ自身が死ぬときだろう。それはそうと、もうすぐ2019年が終わる…

断想

もう会うことはないであろう何人かの人間。かつては友人関係にあったともとれるかもしれない人間たち。彼らは実に生き生きと生きていた。自分の生に意味があることを信じて疑わなかったし、意味がなくとも意味あることにすることが正しいと信じて疑わなかっ…

断想

おれは生活には何の起伏もなくて良いと思っている。というか、思うようになった。最低限、食うに困らなくて、寝る場所があって、あとは余計なことを考えなくてすむ程度のわずかの暇つぶしさえあれば、それ以上を得るために骨身を削ることなどしなくてよいの…

断想

なぜ私が今すぐ死なないのかといえば、そのほうがより苦痛が少ないと信じているからだ。しかしそれは誤りである。たとえば今ここで、腹を割いて失血死するさいの苦痛と、このまま生きているという苦痛とをくらべてみよう。腹を割いて死ぬ苦痛というのを私は…

断想

今週のお題「部活」 なぜ私がこの世界に生きづらさを感じているのかといえば、この世界の如何なる人間とも、少なくとも私の周囲にいる如何なる人間とも、私の生きるこの世の地獄というものを共有できずにいるからだ。彼らはみな、現状に不満をいだいていると…

断想

失われた想い出を取り戻す、といった内容のゲームが、今や思い出されるのみのものとなって、ひと月以上が経った。もうそんなに経ったのか、という思いと、まだ一ヶ月しか経っていないのか、という思いが入り混じっている。鮮明だった想い出は次第に薄れ、淡…

断想

河原にて積む石は、鬼の手にかかるまでもなく幾度となく崩れ去る。石積みは鬼によって無意味になるのではなく、それ自体が何の甲斐ない行ないのだ。 何かを積むという行為、その全てに、最終的な崩壊が含まれている。しからば、私が日々、自らの生を積み上げ…

平成の思い出?

今週のお題「平成を振り返る」 気がつけば、四月ももう終わりで、平成ももう終わりで、平成に何か思い入れがあるかといえば、ぼくは平成に生まれたのであって、それしかぼくは知らないので、これといって平成と関連づけられた思い出なんてなくて、そもそもぼ…

人の悪口というのはたとえささやかなものであっても、自分のあさましい本性をみずから開示する。ということを身をもって学ぶ。

bounoplagia.hatenablog.com この文章をあげつらって。 だれかの悪口を書いていると、いつの間にかそこに書かれたことが自分に対して書かれたものになっている。いわゆる自己紹介乙ってやつだ。 おれはうるさくはないが、自分の望みが叶うなら、他の人間がど…

言葉に詰まる夜がある

おれはひとりだ。そうなるのを望んだのは、ほかでもないおれ自身なのだけれど。時々すごく寂しくなる。おれが自ら距離を置いたいくつかの場所に、もう帰ることはない。 今のおれに帰る場所というのがあるのだろうか。実家はそうかもしれないが、なんだか実家…

断想

日記の書けない日々が続いている。 五〇年二月 記憶が次第に逃れ去る。日記をつけることを決意せねばならぬだろう。ドラクロワのいうことは正しい。日記につけ落された日々は存在しなかったも同然であると。きっと四月にはぼくに自由が戻ってくるだろう。 『…

立ちつくす僕

ぼくはどうしようもなく子供だ。体ばかりが大きくなってしまった。ぼくは物心ついた頃から足踏みしている。ぼくはなぜ、ここに立っているのか。ここに立っているのが、どうしてぼくでなければならなかったのか。そんな問いかけを二十余年、うんざりするくら…

書くことについて

ブログなんてものをやってはいるが、おれは文章を書くことが大の苦手で、宿題で読書感想文なんかが課されたときも、なんやかんやで何も書かずにやり過ごしてきたたちだ。 そんなおれがどうしてブログをやっているんだろうかと、ふと思うことがある。文章を書…