白昼夢中遊行症

2024-018

昼前には症状が軽くなったので、試しにとゼリーを食べたのだが、ダメだった。
30分もすると、それまでなくなっていた痛みがまたしだした。
それから6時間くらいたった頃には、薬の効果も切れたのか、また痛さでのたうち回ることになった。
いまは、1時間半ほど前に飲んだ薬が効いたのか、収まっている。
どうやら、消化液が分泌されなければ平気らしい。ファモチジンヒスタミンH2受容体を遮断することによって胃酸の分泌を抑制するとのこと。これでよくなっているということは、胃酸が良くないのだろう。
ゼリーであっても胃にものが入るのだから、胃酸が分泌される。
となると、当面のあいだは本当に何も食べられないのか。
風呂はどうなのだろうか。昨日は夕食を抜いたけれど、風呂のあと痛みがひどくなった。
シャワーだけにするべきか。この季節、それは堪えそうだ。

2024-017

あまりの腹の痛さに、昨晩は眠れなかった。どのような姿勢をとっても楽にはならず、悪心はあっても嘔吐に至らず、のたうち回りながら、せめてもの慰めとして症状をググったりして、急性胆嚢炎が近そうだ、外科手術が必要らしい、と途方にくれていたら、痛みがマシになったわけでもないがたぶん体力の限界で、午前4時くらいに意識がなくなっていたようだ。

で、目が覚めて、まだ腹は痛くて、とはいえ腹痛で仕事休む、なんてのもなあ、なんて思って支度していたが、次第にひどくなってうずくまり、さすがに無理だということで休みをとった。

休む連絡もしんどい。電話対応できる人が出勤したあたりに電話をかけようと待っていたが、あまりにも痛い。こんなので声が出るのかと心配していたら、また吐き気がある。吐いたら楽になるのだろうかと、水を飲んで胃に刺激を与えてみる。と、今度は吐くに至る。といっても昨晩から何も食べてはいない。胆汁らしき、黄色い液体が出る。味も酸というより苦味があるので、胃液よりも胆汁の割合が大きいように思われた。

案の定というか、希望通りというか、吐いたあとはいくらか症状は和らいで、電話して医者に行くくらいはできるようになった。会社に連絡を入れて、医者に行く。問診、聴診、触診のあと、ひとまずは胃腸の風邪を疑うことにしましょう、ということになった。胆嚢炎の話は特に出なかった。それならそれでいい。この痛みが良くなるならなんでも。ファモチジンとモサプリドクエン酸塩を処方される。食事は無理にしなくてもいいが、水分はしっかり取るように、と言われる。冷たいものは避けるように言われる。今朝、冷たい牛乳を飲んだら症状がひどくなった話をすると、飲み物でも牛乳は避けた方がいい、とのこと。金を払って薬を受け取り帰宅する。薬を飲んで疲れて横になって、手持ち無沙汰でこれを書いている。

いま、昨日からほぼ丸一日続いた症状は収まっている。楽になって万々歳だが、これなら休むほどのものでもなかったのではないかとの考えもよぎる。いやでも、薬が効いたのかもしれないし、医者に行くには休む必要があった。それよりも、明日も休むか、どうするか。身動きが取れて、頭も回るのであればよいのだが、どうか。無理に食事を取る必要はないとは言われたが、なにか食べてみて状況を確認するか? しかし、それでみすみす悪化させるようなことになれば、せっかく楽になったのに、元も子もない。

普通に考えて、たぶん明日も休んでおいた方がいいのだろう。あまり体調を崩すことがないので、この辺の判断はよくわからないな。

2024-016

このところ収まっていたのですが、昨日からまたお腹が痛くなっています。この痛みで眠れるかどうか怪しいくらいです。

これはなんなのでしょうね。今まで、これほど持続的な腹痛になったことはないのですが。今年のはじめ、去年の暮くらいからですね。

食中毒かとも思ったのですが、そうでもなさそうで、寛解時には辛いものも平気です。潰瘍とか癌とか、そういったものになってくるのでしょうか。そうなるともうお手上げなのですが。

とりあえず、しばらくは絶食になるのでしょうか。

2024-015

書きなぐりが増えてきたので、軌道修正。
今日も昨日も、ほとんど寝っ転がって過ごしました。体調は悪くないのですが、無気力状態、というわけでもなくて、肩身が狭いから、というのが近そうです。

肩身が狭い。そうですね。家にいるときはずっと肩身の狭さを感じてはいたのですが、ここ最近はそれを無視できるような図太さというか、おおらかさというか、そういうのがなくなってきているのか、それとも肩身の狭さの程度が大きくなっているのか。いや両方ですかね。

とにかく、何かをする、ということそのものに対して後ろめたさがあって、なるべく何もしないようにしています。結果として、寝たきり生活です。

だから、急な休みなんて願い下げというか、ないほうがいい。仕事をしている限りでは、私は「何かをする」ということを許されるからです。

いやそんなことも言っていられないのですが。

今週のお題「急に休みになったら」

2024-014

生存を選ぶということは、恥辱に塗れながら、慢性的に死ぬということ。
死を選ぶということは、恥知らずの烙印を厭わぬ無防備を晒して、恥辱に塗れて死ぬということ。
ただし、当の本人はどこ吹く風だ。
なぜならその汚名が広がる頃には、もう死んでいるのだから。
しかし、恐ろしいのは、もしもその試みが失敗したら?
どちらも選びがたいものだ。だからこんなにも生きている人間で溢れている。

2024-013

生き方など選べないのだということに気がつきました。だからどう生きるか、ということはもはや問題ではありません。
人生について考えることがあるとすれば、どうやって堪え忍ぶか、ということでしょうか。
いや耐え難い。
耐えることもできない。そうなると、どのように痛みに反応するか、でしょうかね。黙っているのか、泣き叫ぶのか、じたばた暴れまわるのか、背徳に走るのか、神に祈るのか、あるいは呪うのか、見境なく人を殺すのか、建物に火をつけるのか、風説を流布するのか、インサイダー取引するのか、週刊文春のゴシップ記事にうつつをぬかすか、漫才の未来について受け売りの持論を披瀝するのか、昔は良かったと、生まれる前の世界について勝手な空想を膨らますのか、どこにもない国に希望を馳せるのか、異世界転生するのか、あるいはその空想をするのか、暴飲暴食するのか、陰謀論を信仰するのか、末法思想を再興させるのか、インドに行っていないのにインドの人生観を否定するのか、カレーライスにこだわるのか、日記ブログを書くのか、株式会社はてなに入社するのか、情報漏洩するのか、V-Tuberになるのか、キャンプに行くのか、滑落死するのか、駅のホームを通過する急行電車に吸い寄せられるのか、落石に当たって死ぬのか、やりがいを搾取されるのか、退っ引きならないところまで追い詰められて土壇場で自死を選ぶか、比喩じゃなく人生終わろうとしている老人を羨むか、人生なにもいいことなかったと嘆きながら死にゆく老人を羨むか、身の回りのありとあらゆる生物も非生物も性的対象化するか、なけなしの給与に対して上がり続ける物価によって、相対的に価値が減っていく自分を認識するか、体調の悪さにようやく死神が自分のもとにもやってきたのではないかと心を踊らせるか、遊びという文化にただ一つ幻のような希望を託すか、結局のところ商業主義がありとあらゆる価値を摩耗させると嘆くのか、そのようなシニシズムに決まって行き着く性向にうんざりさせられるか、やはり死ぬしかないと息巻くか、やっぱり死ぬしかないのだと、再度確認するのか、希望はあるのか、嘆きのために生きるのだと自分自身に飛びついても言った人が、結局は死を選んでしまったことを反芻するか、「死」のつもりが「詩」になってしまったり、その逆が起こったり、そうかと思えば「私」になったり、突然、万葉の時代の人々に思いを遣ったり、中公新書物語シリーズが物語になっていた試しがないと憤るのか、句点の打ち所がわからなくなるのか、やけに饒舌に捲したてるのか、将来という言葉を聞くたびに暗澹たる気持ちになるのか、こんな苦しみも宇宙の塵だと達観したふりをするのか、結局のところ苦しみからは逃れようもなく、いかなる反応を示したとしても、痛みが和らぐわけでもないので、もう黙っていよう。

2024-012

腹が痛い。なにか悪いものを食べたというわけでもなくただ腹が痛い。いや、昼にはコンビニのカツカレーを食べたっけ。じゃあ、油の取りすぎか?
しかし腹を壊したという感じではなくただ腹が痛い。痛くて眠気が吹き飛ぶくらいには痛い。
でも油の取りすぎかな、それらしい気持ちの悪さはある。
なんにせよ腹が痛くて気持ちが悪い。喉の痛みも続いている。しかし風邪というほどでもない。食事は喉を通るし、熱も出ていない。
なんなのだろう。このまま衰弱していくのかな。
それがいい。たぶん私のためにはそれがいい。このまま明日なんて来なければいいのだ。少なくともすべての明日は私のためのものではないのだ。