白昼夢中遊行症

自己紹介にかえて

落ちぶれて休学している大学生が、バイトに行く以外にすることといえば、ゲームをすること、アニメやら映画やらを見ること、本を読むことといったところで、それらは退屈しのぎ程度であれば、なんら自分のためになることではなく、強いて挙げるとするならば、退屈な時を何かして過ごすことで、退屈に対する罪悪感を和らげるくらいのものである。

自分に降りかかっている退屈は、己が怠慢の結果であって、落ちぶれた自分自身を象徴する最大のものだ。そしてこのアイデンティティは、友人からの急な人数合わせだったり、退屈しのぎの誘いの格好の的になる。「どうせ暇だろう」と言われれば、そこに恩着せがましい響きを認めて少々腹を立てようとも、断ることはできなくなる。

自分とて好きで暇になったわけではないし、この空白の埋め方を知らないわけでもないと反駁したい気持ちは追いやり、すでに形式的なものとして身についた感謝を示して、それらの誘いに応じる。だいたいそんな日々を過ごすのが休学した大学生だ。

しかしそんな怠慢だけが唯一のアイデンティティのような人間であっても、もっとまともな何者かになりたいという思いは一丁前に持っていて、それゆえに、こんなところで右往左往している暇はないし、こんな奴らの誘いに乗る義理はないと思ってしまうことがしばしばある。その焦燥感がある閾値を超えると、不機嫌であったり、かえって底抜けに上機嫌な振る舞いとして表出し、周囲を困惑させるほどになる。それらは情緒不安定な人間の発作ととられ、扱いにくい奴であるという「何者か」を得られることになるが、それはまだまともなものとは言い難い。

では、どのような者であれば自らに納得できるのか。どのような者になりたいと望むのか。そういった問いに、おれはいまだ答えを得られていない。好きなことをして過ごして、それが何者かになったなら、それは幸福な生といえよう。では、おれは何が好きなのか。上に挙げた日常を埋める事ども、バイトやゲーム、読書。それらについて、おれはどう向き合っているのか。

おそらくこれらの中では、読書が最もおれの好むところのものであろう。バイトはほとんど他者に端を発するようなのストレスの源であるし、ゲームはめったにしない人間だ。アニメも気が向いたときにしか見ようと思わないし、そうなると日常的にやっていることといえば、あとは読書と散歩くらいだ。といっても、おれは大した読書家でもなく、年間に30冊も読めればいい方だ。しかしそれでも、本を読むことはおれのどうしようもなく殺風景な生活の、昨日今日、明日と続く繰り返しの中で、何かをしているという実感を与える、数少ないものの一つだ。

あとは散歩だが、実際にはおれは出不精な人間で、何か目的がないことには外出しようなんて思わない。だが、歩くことが好きなのは嘘ではない。用事があって外に出るのであれば、時間が許す限り、歩くことを選ぶようにしている。そして、なにかにつけて脇道に逸れることを好む。そして本でも持っていれば、道中に腰掛けられるところなどを見つけたとき、そこで休憩しながら、本を読む。

そんなひと時を、何者かへの焦燥が台無しにしてしまうことがままあるのだが。けれど、こういったひと時こそが、おれをおれたらしめている何かなのかもしれない。しかし、これでは社会的に何者かとして認められるには足りない。社会の中で何者かとして受容されるには、社会に対して何かを与えなければならない。

いや、しかし、本当におれは社会における何らかの立ち位置を欲しているのだろうか。おれは社会に背を向けて、地下に潜ってひっそりと息絶えたいと願うような人間ではなかったか。といっても、生きていくには何らかの形で社会と向き合って暮らしていかなければならないのであって、そこでは何者かという身分が必要なのだ。生きるためには何者かででいなければならないのだ。

では、生きるためと言ったが、おれはしきりに生きていたくないとのたまうような人間ではなかったか。しかし現実はそれほど簡単なものではないのであって、おれのような人間にも、己をこの醜い生のあふれる世に縛り付けるしがらみがあって、それゆえに生きざるを得ないのだ。それに、この世に生まれてきてしまった以上、生きることが次善の策であるともおれは思っているので、おれは生まれてきたことを悔やみながら、ひっそりと生きている。そして生きるにあたって、何者かであることを社会は半ば強制してくる。そのことにうんざりしつつも、何者かにならなければならないと焦る日々。

そうして、何かしなければならないと考えるおれは、怠惰に身を任せて何もしたくないおれと話し合い、その結果急ごしらえな手段に出ることにしたのだ。つまりおれの日常をネット上で垂れ流しにして、押し売りのような形でおれは社会に向けておれの日々の記録を人々に与えるというものだ。こんなものを見る人間がいるのかどうかわからないが、少なくともおれは何かをした気になれる。そうやって何者かになろうとするおれに対して、何もしていないという罪悪感を和らげることができれば、この目的は果たされたことになる。要するに自己満足だ。だからこんな偏屈な人間の文章など、強いて読む必要はない。それでも読んでくれるようなもの好きがひとりでもいたならば、それはそれで少しうれしくはあるのだが。