白昼夢中遊行症

生きることは疲れる。

生きるのは疲れる。と言っているぼくはどこか嬉しそうだ。人生そのものに一歩引いた姿勢をとるような、普通とは違う考え方をもとことへの喜びをかみしめているようだ。今日も無意味な人間の営みに身をすり減らして、一日を空しく浪費した。忌まわしき人間ども。しかし愛すべき人間。ビールというものを発明した愛すべき人間。このグラス一杯のビールがぼくをつなぎとめている。ビールじゃなくてもいい。ウイスキーでも、甘いチョコレートのひとかけらでもいい。これらのぼくが好むものもまた、人間によるものだ。つまりぼくは、人間の生み出したものによって生き、また苦しめられている。ぼくがいま生きているのは、それらの絶妙な釣合いによってである。忌まわしき人間。ぼくもまたその一員で、この存在そのものが、だれかを苦しめている。人間はたがいに苦しめ合って生きるのだ。そしてそのために生きているのだ。だれかが幸福になる。そのとき、だれかの尊厳が踏みにじられている。しかしその苦しめられた人々もまた、ほかのだれかを苦しめることによって生きることへの希望を見いだすのである。それがどこまでも続いていく。ふたたび同じ人間が苦しめられたり、まったく自分は苦しめられることなしに、ほかの者からの搾取を続ける者もいる。そうしてしわ寄せを一点に抱えて、抱えきれなくなった者は、どこかへ消えていく。寄るところのなくなったしわは、ほかのところに押しよせる。つまり、この仕組みから逃れることもまた、だれかを踏みにじることなのだ。だから、だれをも傷つけたくないと願うのならば、みずからの傷を省みず、かつどれだけ傷つけられようとも立っていなくてはならない。膝をついてはならない。目をそらすことも許されない。それでもなお、生きていなくてはならない。ぼくはこんな人間にうんざりしている。何年も前からうんざりしている。こうしてぼくもまた、見知らぬ誰かを不快にするであろう文章を書かざるを得ない現実にうんざりしている。何もしたくない。ぼくはどこにも行きたくない。ぼくはどこにもいたくない。できることなら次は道端に落ちている小石か、塵にでも生まれたい。それらに命があるかといえばおそらくないから叶わぬ願いではあるのだが。生れるという害悪。存在以前のものでありたい。
生きるのは疲れる。ぼくは生きていたくなかった。どこかでだれかが生れた。ぼくにはかける言葉がなかった。しかし、その命のために涙することも、祈ることもできないのであった。存在してしまった以上、それはぼくに害をなし得るものだからだ。そして、そのようなもののために何かをすることはできなかった。ぼくはそれほど立派な人間ではなかった。
ぼくはだれかを傷つけたくないから死ぬことをしないのではない。だれかを踏みにじる、その感覚、その快楽を忘れられずにこの生にしがみついているのだ。そして、人間というのはみんなそういうものだ。だれかの足を引っ張り、それを足蹴にして立つこと。それは苦しみに耐えてでも得る価値があるように思えるくらい、魅力的なことだ。

 

gigazine.net