白昼夢中遊行症

書くことについて

ブログなんてものをやってはいるが、おれは文章を書くことが大の苦手で、宿題で読書感想文なんかが課されたときも、なんやかんやで何も書かずにやり過ごしてきたたちだ。

そんなおれがどうしてブログをやっているんだろうかと、ふと思うことがある。文章を書くのが嫌いなおれがどうして、だれにも強いられていないにもかかわらず、ああでもないこうでもないと思い巡らせながら文章を作っているのだろうか。

実をいうと、このブログを始める以前から、たまに日記をつけることを習慣づけては、それが途絶えたりしていた。今さかのぼれるかぎりにおいて、いちばん古い記録は5年ほど前のもので、高校一年の夏休み前のものであった。

それをあえてここに載せるなんてことはしない。すくなくとも、今日はそんな気になれない。ただ、日記をつけることをなんとか習慣づけようとしては、失敗しているなかで、おれがそこに求めていたのは、苦手の克服、というだけではない。おれはおれの存在を確かめたかったのだ。こんな言いかたは大げさだろうか。

高校生として生活していたころから、おれは日々の単調な繰り返しでこのまま死んでいくとしたら、おれが今ここに存在しているということに何の意味も見いだせないのではないかという恐れを抱いていた。おれには夢も、当面の目標もなく、ゆえにその先にあるものは、おれがおれであるということに何ら意味のない人生であるのは明白であった。だからこそ、おれがほかでもないおれであるということを、日々の記述によって示そうとしていたのだ。

おれの五感を通してみたもの、おれの頭で考えたこと、おれが見た夢など、そういったものはおれのものでしかありえない。それらをなにかの形で、おれによって生み出される何かによって残すことができれば、それがおれというかけがえのない存在の証明になると思ったのだ。そして、その何かとして選ばれたのが文章だった。文章ならば、母国語をもち、字を書くことができればおれのような何の才も持たない人間であっても形作ることができるからだ。

そうして、おれはたびたび日記を書くことに挑戦しては挫折を繰り返し、いまに至る。

……

 

しかしいま、こうして書くことについて考えて思うのは、おれがおれの五感を通して感じるものは本当に特異なものなのだろうか、ということだ。おれは——というより、ほとんどの人間は——つねに五感すべてに何かしらの刺激を受けているが、それらがすべて、つねに意識的であるわけではない。五感を通して感じているものごとはいつも選択的で、たとえばウイスキーの香りをかいだとき、嗅覚としてウイスキーの香りを感じ、そしてそれは意識にあらわれるが、つねに何かしらの匂いを嗅覚で感じ取り、それを意識のうえにつねに位置付けているというひとは考えにくい。もしくは、コーヒーの匂いを嗅いで、その香りを感じているとき、同時に嗅覚にほかの匂い——たとえば、チョコレートの匂いの刺激を受けていたとしても、意識的なのはコーヒーの香りであり、おれはコーヒーの匂いを嗅いでいるとしか思っていないだろう。本当はコーヒーの匂いを嗅ぎながら、チョコレートの匂いを嗅いでいるのにもかかわらず。さらに言うなら、コーヒーの香りといってもそれはさらに細かい要素に分けることができて、さまざまな嗅覚への刺激を受け取って、総体としてしかじかの匂いだと意識するのである。

コーヒーの香りを例として続けると、コーヒーの匂いを、コーヒーの匂いとしてのみ感じる人もいれば、あるコーヒーの匂いを嗅いだときに、これはなんとかというコーヒーで、普段好んで飲むコーヒーとは違うものだ、などと区別する人もいる。さらには、あるコーヒーの香りを、花の香りだとか、大地の香りだとか言って、コーヒーの香りをさらに細かく嗅ぎ分ける人さえいる。

彼らの違いが何なのかといえば、今までの人生だろう。いままで生きていく中で積み重ねてきた経験により、感覚の取捨選択における傾向性が決まるのだ。

おれについていえば、いままで生きてきた中でたいした経験などなく、おれの五感はといえば、だいたいが眠っている。おれはおれが生きてきたなかで、できるだけ何も感じないということを選ぶようになったのだ。そうしておれは、いつでも曇ったレンズを通してものを見、耳に栓をして声を聞き、鼻にも栓をして——鼻に関しては鼻炎持ちなので本当に栓をしたようになっている——匂いを嗅ぎ、化学調味料の味さえもの足りず、立っているときには急に地面が消えたように感じてふらつくようになった。

こんなおれが何を感じ、何を考え、何を書き残そうというのか。書かれたものに意味が宿るのか。じっさい、おれはおれの貧弱な感覚を補うために、借り物の言葉を使って自分の感覚を捏造することがある。そうして得た感覚は、本当におれの感じたことなのか。

そんなことを考えていたが、おれは意味がなくとも、ひとまずは書き続けることを選ぶだろう。長々と書いてきて、結局はこうなのだ。おれは今のところ、自分の感覚を本物だと信じ続けることしかできない。おれは「われ思う、故にわれあり」という言葉を信じていないが、しかし信じているふりをすることにしている。なぜというに、おれという主体がたとえ虚ろであったとして、それをどうすることもできないからだ。いちど自分自身を疑ったときから、二度と自分を信じれなくなった。その代わりに信じているふりをできるだけ真剣にした。

 

「というのは、もし役者が、自分は一編の芝居を演じているのだと知らずに演じれば、かれの涙は本物の涙であり、かれの生活は本物の生活になってしまうからさ。そしてぼくが、自分の心のなかの苦悩や喜悦の歩みに想いをはせるそのたびに、ぼくは有頂天になって、ぼくの演じている役割は、あらゆる役割のなかでもっとも生真面目でもっとも熱狂的だということが骨身にしみてわかるのだ」

 

「それにぼくは、あの完全な役者でありたいんだ。ぼくには、自分の個性なんか問題ではないし、それを育てる必要もない。ぼくは、自分の生活が然らしめるものになれればいいので、生活から体験を得ようなどとは思わないのさ。ぼく自身が体験だし、ぼくを作り導いてくれるものこそ生活なのだ。もしぼくにじゅうぶんの力と忍耐力があれば自分をどの程度完全に非個性化しうるか、また、ぼくの諸々の力が、一体どこまでその積極的な虚無の推進力になりうるかがよくわかるのだ。これまで、そうしたぼくをいつも押しとどめてしまったのが、ぼくの個人的な虚栄心さ。いまこそぼくに納得できるのは、行動したり、愛したり、苦しむということが、つまりは生きることなんだ。(……)」

カミュ『太陽の讃歌』

 

このカミュの言葉の意味を、おれは十分にくみ取ることができないが、これを目にしたとき、どうしてかこれをおれの哲学としようという思いが起こった。そこでまず手始めに、おれは完全な役者というのを志して装いを続けるのだ。