白昼夢中遊行症

無為に過ごす休日、少し先の不安と生きることのもの悲しさ

12時に目を覚まし、飯を食べに行く。帰ってきて、本を読んでいるといつのまにか眠っていた。

再び目を覚ますと19時だった。体に残る倦怠感を振りほどいていたら、21時になっていた。スーパーに食材を買いに行く。しかし何か料理するのも面倒で、半額の総菜と100円のカップ焼きそばを買って帰る。インスタント食品を食べるのは久々で、物珍しさのおかげで味は気にならなかった。

休日は無為に過ぎていく。そうでない日も無意味であることには変わりないが。

こんなおれが、いったい四月から大学に復学して何ができるというのか。運よく大学生活を卒業までこぎつけた所で、その先に何があるというのか。しかし、このまま大学をやめたとしてもそれは同様で、どちらにせよろくな将来は保証されていない。そんなの、みんな同じではないかと人は言うかもしれない。その通りだ。しかし、保証されていない未来に向かって、みんな何かしらの指針を持っている。夢だとか目標だとかいうやつだ。おれはといえばそんなものはない。そして、あてもなく歩き回った先には絶え間ない無意味な苦痛と、終局としての死があるだけだ。

なにか一つでも野心を抱いているならば、どうぞ生まれてきたことに感謝して、逆境の中でもしたたかに生きなさい。

何も野望をもたぬ無欲なわれわれは——奪われる側にしか立つことのできぬわれわれは、この世界に生まれ落ちたことを呪って生きなければならない。

この世界の人間は、奪い合う者か、奪われる者のどちらかで、奪われる者に生まれた以上、その命運にあらがうことは許されぬ。どうあがいても逃げ出すことはできない。だから、自分自身を切り売りしてなるべく生き続けなければならない。死ぬのは、過労か病気でなければならない。自殺であってはならない。

今日は昼間は雨が降っていた。寒くはなかった。夜には雨は上がっていた。地面もだいぶ乾いていた。部屋は三日間つけ放した暖房が効いていた。雨のおかげで湿度も50%を上回った。余計な考えが頭を覆うには充分に快適な環境が整っていた。

おれはいつか死んで、だれかがそれを始末する。その前におれは何度、誰かの死を始末する側に立たされることだろう。死というのは何となく悲しい。生きていたことのあらゆる痕跡を死がどこかへ運び去ってしまう。亡き骸を見たときの何とも言えぬもの悲しさ。人生のむなしさ。おれもまた、こうして終わってしまうのだということ。生きているのがいけないのだ。生まれてしまったがために、死なねばならぬのだ。死の想念は生きるうえでのすべての幸福をもってしても克服できるものではない。すべての人生を全体としてみれば、どれも悲劇である。ならば生れなければ……。これ以上悲劇の幕を上げてはいけない。人間は生まれるべきではない。

 

人間の一生の幸福を増大させるということ。それは、その証言の悲劇性を拡大することだ。真に悲劇的な芸術作品とは(もしそれが一つの証言であるなら)、幸福な人間のそれであるにちがいない。というのは、こうした芸術作品は、死によってまったく吹き消されてしまうであろうからだ。

カミュ『太陽の讃歌』

 

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