白昼夢中遊行症

倦怠の春

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倦怠感。しかもこれはいつも感じているものではなく、季節によるものだ。花粉症によるものだ。それがなければ今日は調子のいい日だった。花粉症による倦怠感が、それを覆いつくして余りある程度の調子のよさではあったが。

どんな季節にもそれを嫌う理由がある。春は花粉症だ。これのおかげで春という季節はほかの季節と同じくらい嫌いなものだ。

しかし、春のはじまりだけは好きだ。春一番が吹いた後の陽気、それにつられてやってくる鳥たち、寒さに耐えて花開く梅の花、その匂い。こうしたものにふれると、待ちに待った春がやってきたのだと思うが、その後間もなく花粉症に苦しみ、春がいかに自らの嫌うものであるかを思い出す。

春は花粉症、夏は暑さ、秋はもの悲しさ、冬は寒さ。これらに苛まれながら、次の季節を待ちながら過ごす日々。忍耐のうちに時が過ぎ、やがて死んでいくのだ。こんな人生を空しいと言わずしてなんと言うのか。

それとも、季節にせよなんにせよ、嫌いなところばかり見て、自分で苦しんでいるにすぎないのだろうか。そうともいえるだろう。しかし、そうせざるを得ない。人間はとうの昔に自然の手を離れた。いちいち季節の美点に目を向ける暇などない。人間には人間の生活圏があって、それは彼らがつくりだしたもので、その過程で彼らは自然を追放した。人間にとって自然は自らの手に余るもので、敵対するものであった。

ゆえに人間の関心ごとは季節によって変わる、自然の脅威である。春は花粉症がその一つだ。
ぼくは望んで自然の手を離れたわけではないが、人間として生まれた以上、自然とともに生きることはできない。人間の作ったシステムのなかでしか生きられない。だから、ぼくは春という季節を憎んで生きるほかないのだ。