白昼夢中遊行症

夏休みのおわりに

カーテンを開ければ外が明るくて、部屋の明かりをつける必要がない。外に出れば、太陽の光はまだぼくの目には眩しくて、目に映るものはみな鮮明に、それぞれの色が生き生きと感じられ、すこし驚く。世界がこんなにも色鮮やかであったことを思い出す。

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三月が終わり、四月になったら、ぼくはふたたび大学生としての生活を始める。そして、すでにその準備をはじめつつある。もはや眠ることなく夜が明けることはなくなったし、午前中に目覚めるようにもなった。

夏休みは終わる。夢は醒める。ぼくはひたすら歩く練習をしていた。

三月がずっと続けばいい。それは無理な相談だ。いや、ずっとでなければ、できないことはない。実際ぼくは三月ではないが、夏休みを八か月にまで引き延ばした。そうして得たのは、ずっと続くものというのは、それほど魅力的ではないという見解だ。時間的に限りあるものを引き延ばすとき、そのものの価値もまた、薄く引き伸ばされていくのだ。二か月の夏休みを八か月続けた。ぼくが過ごした八か月の夏休みという時間の質的な価値は、ほかの大学生が過ごす二か月の夏休みとそう変わらないだろう。

しかし、逆にいえば、ぼくには時間が必要だった。八か月という時間を費やすことでようやく、ほかの大学生が二か月のうちに得るものと対等のものを得られたのだ、ともいえるだろう。ぼくの歩みはそれほどまでにゆっくりで、しかも何度もスタートに戻ってやり直す必要があった。

ぼくには当たり前のことができなかった。夜に眠ることはできなかったし、夜に眠れないのであれば、朝に目を覚ますこともない。寝ていないのだから当然だ。かといって、寝ないでいるというのもできず、結果、朝に陽が射して憂鬱な気分がいくらかまぎれ、眠さがそれをようやく上回ったというところでやっと眠りにつく、という生活をしていた。

趣味といえるものは何もなかったし、人間関係もろくに構築できない。将来の見通しもなく、そのために今何をしようという計画もまったくもっていなかった。

単位をとろうという気持ちは薄弱だったし、それゆえ、講義に出席しないどころかテストも受けず、レポートも提出しなかった。演習形式の講義にも当然でなかったし、ゼミも理由なく欠席を重ねた。取得している単位数が少ないと言われつつも、時間割を組むときは週に10コマ程度しか授業をとらなかった。

興味のあることに対しても努力を惜しみ、なるべく何もしないでいた。生きるのに最低限のことしかしないでいた。

一方で、こういった状況がまずいということは自覚していて、少なくとも大学の敷地内には行こう、と、大学の図書館に通っていた時期もあったが、それが講義への出席へつながることは一切なかった。人がほとんどいない、建物の上階の端の読書スペースに陣取って、本を読んでいた。読んでいたといっても、上の空で目で文字をなぞり、ページを繰っていた。内容は一切頭に入っていなかった。何かしているという大義名分が欲しかっただけで、実際は何もしていないも同然であったし、何もしたくなかったというのだからそれも当然のことである。なるべく何もせずに、このままではまずいという気持ちだけを紛らわせようとしていた。とはいえ、その試みは目的に反して、どんどん危機感を募らせていくという結果に終わったし、開き直ることもしていなかったのでべつの何かに専念するでもなく、何も得られなかった。

しだいに図書館へも行かなくなり、借りていた本を返したのを最後に、いっさい大学の敷地に足を踏み入れなくなった。

そうして夏が来た。夏というのはもともと嫌いだった。夏休みというのも。

しかし、ぼくはそれを引き延ばすことにした。そうするしかなかった。ぼくはぼくの生きる時間を夏休みに捧げることにした。

夏休みを長引かせることで、その嫌いな部分というのも希釈され、夏休みがもたらす苦悩というのもいくらか薄まったというのは救いの一つであったかもしれない。というのも、夏休みの終わりを先延ばしにすることで、それに終わりがあるということを意識から外すことができたからだ。ぼくがどうして夏休みが嫌いなのかという理由の一つは、そこにあった。

そうして得た、八か月という時間、ぼくは存分に何もしないで過ごした。何もしないでいると、不思議と何かやってみてもいいかなと思い始めるようになった。そして、また日記をつけるようになった。次に、読みたいと思った本を読むようになった。それまでは、人目を気にして格好のつく本を読んだり、レポート執筆やテスト勉強のための読書くらいしかせず、そういったものは面白くなかったし、それに費やした時間の半分以上が、上の空のうちに過ごすものであった。

今年に入って、このブログを始めた。ブログ自体は去年の夏に作っていたのだが、新しいことを始める気になれなかった。いや、始める気はあったが、そうする余力が一切なかった。

そして三月。ぼくは夏休みをこの三月で終わらせるという決断にはまだ迷いがあったけれど、

三月。三月の終わり。夏休みのおわりに、ぼくは夢から醒めて、また歩きだそうと決めた。

そうしてこれまで過ごした八か月を振り返って見れば、そうして過ごした時間は、ぼくが夢から目覚めてまた歩けるようになるために費やされたものであるように見えた。

また夜に眠れなくなるかもしれない。またうまく歩けなくなるかもしれない。それでも、いまこうした思いを持っているということをもって、ぼくの過ごした長い夏休みというのが無駄ではなかったのだと言いたい。