白昼夢中遊行症

断想

おれの心はまともかまともでないかでいえば、間違いなくまともではないだろう。しかし、だからといって社会生活を送ることが不可能かでいえばそうでない程度のものだろう。そして、その信念があるからこそ、おれはこの、ぎりぎりの一線でまともな社会的人間として生きているのだ。

ひとたび、おまえはまともに生活を送ることのできぬものだから、それをわきまえた生活をせよと言われれば、ぎりぎりで保っていた心はすぐさまくじけるだろう。おれはまともではないのだから、という自己理解を免罪符として、まともに生きていくことをやめるだろう。しかし、その生き方はおれの美徳とするところではない。だからおれは医者に行かないし、大学のカウンセラーとも本音で話さない。

おれはまともに生きていくということに対して異常なほどに執心している。まずそのこと自体がまともなことではないだろう。まともな人ならば、そんな強迫的な意識を持たずとも、自ずからまともなレールをなぞっていけるのだ。しかしそれは真実だろうか。おれがまともな人について話すことには何一つ根拠はない。他人の心を覗いたわけでもないのに、どうしてまともな人は大した苦悩もなしにまともな人生を歩んでいるのだと言えようか。

まともってのがまずわからん。おれは何をもってまともな人生だといっているのか。何を目指しているか、いまおれはどちらを向いていて、本当はどちらへ生きたいと望むのかをまったく考えないで、とにかくまともがいいとだけ繰り返す。いまこの自分の姿が、おれの望んでいたものかもしれない。