考えないようにするために一番手っ取り早いのは、自分であるという意識をすっかり無くしてしまうことだ。
どういうことかというと、現前する物事に対して自らを一切反映せずに、それらをあるがままに受け入れるということ。それも自分の得た感覚としてではなく、自分に対して一人称的な視点を与えている個体が得たものとして。つまり、離人症的であること。
ぼくが今見ているものは、ぼくの一人称的視点から見られたものであり、普通に生きていれば、それはぼくの得た感覚であるということに疑いを挟む余地はない。
たとえば、ぼくが悲しいと感じるとき、それは紛れもなくぼくが悲しんでいるのであり、それ以外の何物のものでもない。そして、ぼくの悲しみである以上、ぼくによってでしか、それを癒すことはできない。そして、ぼくの悲しみがぼくにしか癒やし得ないものであるならば、ぼくが悩み、それを癒さねばならない。
しかし、そうやって考えこめば、また夜に眠れなくなる。考えないためには、自分であるという意識をすっかり無くしてしまうのだ。悲しみはぼくの悲しみではない。そもそもぼくというものがそこにいないのだ。一人称的に感じられるが、それは極めて巧妙に自分にとってもものであるように偽造された感覚だ。一人称から一歩引いたところから、それらの現象を虚構として見つめること。現前する物事が、さして差し迫ったものではないと判断すること。なぜならば、そいつは自分のものではないから。そもそも自分がそこにはいない。
悲しいと思うぼくはいない。悲しいと思っているひとつの主体がそこにあるだけだ。それはぼくではない。ならば、ぼくというのはなんだといえば、そんなものはない。便宜上、ぼくに一人称的に経験を与えている主体をぼくとするだけで、それは事実としてはぼくではないのだから、その主体がどんなに悲嘆にくれたり、憤りを抱いたとしても、それはぼくの悲しみや怒りではないのだから、そのことに対して何か考え込む必要などないのだ。何も考える必要などないのだ。現前する物事を、ただあるがままに受け入れること。そうして生きていくこと。そうすれば悩みと過ごす夜というのも無くなって、生きるのが簡単になる。
それはたんなる自己放棄だと言われるかもしれない。しかし、これはそもそもの自己というのを否定している。なので、その指摘は成り立たない。
世界はなにも感じない連中のものだ。実践的な人間であるための本質的条件は感受性の欠如であり、生き抜いてゆくために重要な長所は、行動を導くもの、つまり意志だ。行動を妨げるものが二つある。感受性と分析的思考だ。そして分析的思考とは結局のところ感受性をそなえた思考に他ならない。あらゆる行動は、本来、外的な世界へわれわれの人格を投影することだが、外的な世界はその大部分が人間という存在によって構成されているので、人格を投影するということは、他人の道の上に立ちふさがり、自分の行動の仕方によって他人の妨害をし、傷つけ、踏みつぶすことに本質的に帰着する。
フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』
自分の言っていることが要領を得なくなってきた。と思ったら最初からよくわからないことを言っているし、いつもそんな事ばかり書いていたことを思い出す。
上に引用したペソアの断章にあるような、実践的人間であること。これが生きるにあたり肝要だと僕は思う、ということを言いたかった。
自分であるという意識をなくし、自分自身もまた他人と同じように位置づけることができれば、他人の道に立ちふさがることにもためらうことはなくなるだろう。というのも、他人の妨害をし、傷つけ、踏みつぶしているのは自分ではないということだから。
しかしまた要領を得なくなってきそうなので、このあたりでやめにしておこう。自分が何を言いたいのか、何を言っているのかわからないままに、とりあえず言葉にして残しておくこと。ぼくが日記を書くにあたってはそれが一番重要で、それが人に伝わるか、自分自身が読んで、そのときに思っていたとおりのことを読み取れるか、ということはあまり気にしていない。書くということは気晴らしだ。カフカもそんなことを言っていた。
小さな文章であっても結末をつけることが何かと難しいという所以は、(……)ごく小さな文章でさえ、書き手に自己満足と忘我の境地を要求するところにある。こうした境地から出て日常の空気の中に一歩踏み出すことは、強い決意と外部からの鼓舞なしには難しい。(……)
(1911.12.29)
この文章も着地点を見失ったまま、ぼくは不安に追い立てられて逃げ出すことにする。