白昼夢中遊行症

断想

なぜ私が今すぐ死なないのかといえば、そのほうがより苦痛が少ないと信じているからだ。しかしそれは誤りである。たとえば今ここで、腹を割いて失血死するさいの苦痛と、このまま生きているという苦痛とをくらべてみよう。腹を割いて死ぬ苦痛というのを私は経験したことがないが、そこには肉体的痛みと、すぐそこに迫った死への恐怖がある。この際考えられる苦痛というのは大体そのような類いのものだろう。では、このまま生きている苦痛というのはどうか。このまま生きていくというのならば、私はまず、生きていることそれ自体の苦痛を経験するだろう。いつ終わるともしれぬ痛みが、死を迎えるまでつづくということだ。そして、死がいつこの身に訪れるかわからないという恐怖もある。欲するものが得られない、忌むべきものを避けられない、これぞわが望みと思い、手を伸ばしたものはみな、触れるやいなや灰燼に帰す。そもそも苦痛を感じるのは生きているからこそではないか。自殺をしないのであれば、自らの死期を選ぶことができない。そしてそれは無限の苦痛を伴う。それはいわば、終わりの見えぬ拷問だ。しかも、死ぬという苦痛を内包している。ならばなぜ私は生きているのかといえば、それは生きんとする意志によってとしかいいようがない。私はこの、盲目の意志に突き動かされて、それで生きているのだ。私の知性というのは、この私の強烈な意志を律するには足らない。それどころか、私が生きようとすることを正当化するのに躍起になっている。自殺をする者にとって、肉体的苦痛はもはや苦痛ではなく、むしろ精神的苦痛に小休止を与える救いのようなものだから、自殺をする者にとっては肉体的苦痛は何の歯止めにもならない。そう言ったのはショーペンハウアーだったか。しかし、私はこれに賛同しかねる。というのも、私には、精神と肉体との違いがわからないからだ。苦痛に肉体的も精神的もあるか? 苦痛は苦痛だ。肉体的苦痛にさいなまれながら、精神的苦痛にも悩まされる、ということだってあり得る。それに、肉体的苦痛があるときには、精神的苦痛も伴っていないだろうかと思うのだ。なぜって、私たちは現前している肉体的苦痛に対して、その運命を呪ったり、そこへ至らしめた自分自身の愚鈍さを呪いはしないだろうか。そしてそれは自らの肉体的苦痛を精神の苦痛へ置き換える行為ではないか。我々は肉体的苦痛を感じたとき、それを少しでも和らげようと、自らの精神的苦痛を重くしようとしないか。いやもう、ここまでくると、苦痛を肉体的と精神的なものに分けること自体がナンセンスだと思うのだ。苦痛は苦痛だ。まあ、私はショーペンハウアーを、岩波の『自殺について』をざっと流し読みしたくらいにしか知らないので、もしかしたら私の知らない、彼なりの精神と肉体の二元論があるのかもしれないのだが。

 

自殺について 他四篇 (岩波文庫)

自殺について 他四篇 (岩波文庫)