白昼夢中遊行症

断想

おれは生活には何の起伏もなくて良いと思っている。というか、思うようになった。最低限、食うに困らなくて、寝る場所があって、あとは余計なことを考えなくてすむ程度のわずかの暇つぶしさえあれば、それ以上を得るために骨身を削ることなどしなくてよいのではと思う。

食うものがあれば生きられる。寝床があれば凍える心配はないし、そこがプライベートの確保された空間であればなおよく、夜襲を警戒する必要はない。そうすればあとは、自殺の観念に悩まされなくてよくなる程度の暇つぶしがあればよい。

ただ、問題はこの暇つぶしだろう。多くの人間は、この暇つぶしに過剰なものを求めてしまったり、その暇つぶしを通して欲をかき立てられるということがままある。食って寝る以外のことはたかが暇つぶしだ(もちろん、食って寝るための糧を得る行為は除く)。

そのたかが暇つぶしに、人との比較や使命感なんて要素を取り入れてしまうと、生活は途端に慌ただしいものになる。人よりも高い地位に就きたいとか、金がほしいとか、認められたいとか、なんだかんだと忙しくなる。それで何にも疑問に思わず死ぬまでそうやっていけるのならそれでも良いだろう。少なくともその人にとってはそれでいいのだろう。そういう奴のせいで世界全体としてみれば悪しきほうへと傾いていったとしても、そいつ自身にとってはそれでいいだろう。

しかし問題は、そのたかが暇つぶしのために死ぬ人たちがいるってことだ。さらに悪いことに、その死ぬ人たちの中には、自殺する人だっているのだ。自殺しないために暇つぶしをしているのだというのに、暇つぶしのために自殺することになるような人間がいる。

人生にとってそれらのことは本質的か? そうじゃないだろう。人生ってのの本質は(仮に生きるということは無条件に肯定されることとした上で考えるなら)、食べて寝ること、つまり死なないことだ。それ以上を求めることはないし、それ以上を求めたがためにみすみす死ぬようなことがあってはならない。

もちろん、生きることというのが無条件に肯定されるようなものであるなどという証拠はない。生きることは条件付きに肯定されも否定されもするようなものなのかもしれない。しかし、それならば生きることが肯定される条件というのは何なのだろうか。反対に、それが否定される条件は?

さらに言えば、生きることは本当は、つねに誤りなのかもしれない。おれたちは今すぐに死ぬべきなのかもしれない。

しかし明らかなのは、現状として生きている以上、そこから一転してそれを否定し、実際に死へと舵を切るのなら、そこには十分な検討が必要じゃないかと思う。十分に検討し尽くすまでは、判断中止としてひとまず生きておくのが適切じゃないだろうか。

そうすると、やはりひとまずは生きることを第一とすべきではないか。そして、そのほかの物事で判断力を鈍らせてはいけない。暇つぶしといっても、健全な状態を保つための暇つぶしだ。それは健全な状態を保つことのできる範囲の暇つぶしであり、死の観念に視野狭窄に陥れられないための暇つぶしだ。

そうしてごく健全な判断をもってして検討を重ね、やはり死ぬべきだと思うのなら死ねばいいし、生きるのが正しいと思うのなら生きればいい。その判断をだれもとがめはしないだろう。少なくとも、おれはそれでいいと思う。

 

寝ぼけているせいか、意図しない方向に話が進んでいった。着地点も見失ってしまった。なんの言いたいことも用意せずに書き始めて、そのうえそれほど時間を取らずにでたらめに文章を書くとこういうことになってしまう。

バイトがなくなったぶん、代わりに何か適度な暇つぶしになることとして(今はそれほど暇ではないのだが)、習慣的にできるものをということでなるべくここに毎日書き込むようにしているのである。

今日はそんな感じだ。とくに話に落ちはつけないし、もとよりその技量もない。おわり。