白昼夢中遊行症

断想

もう会うことはないであろう何人かの人間。かつては友人関係にあったともとれるかもしれない人間たち。彼らは実に生き生きと生きていた。自分の生に意味があることを信じて疑わなかったし、意味がなくとも意味あることにすることが正しいと信じて疑わなかった。

こうした人たちの幸せをもしおれが望むとして、おれから言えることといえば、どうかそのまま、脇目も振らずに生きてくれということくらいだ。

人は信仰なしには生きられない生きものだ。ある面で理性的な生きものでありながら。無信仰を自称する人たちとて、まっとうに生きているのなら、何らかの信仰を抱いている。逆に、どうしてもまともに生きられぬ人たちというのは、どんなものにも、心の奥底からは信じることができなくなった人たちだ。神に、ないしは神なるものに、疑念を抱くくらいならまだいい。疑うというのはまだ信じたいという気持ちがある。まだいくらでも信仰を取り戻すことができる。救われないのは、もはや信じる気すらもすっかり尽き果ててしまったものどもだ。そういう奴らはもはや、いくら神が申し開きをしたとて、聞く耳を持たぬだろう。いくら神が自ら歩み寄ったとて、同じ分だけ距離をとるだろう。そもそも神は何の申し開きもしない。ただ沈黙あるのみだ。

ちゃんと生きていたいのならば、そうしたものにならぬことだ。神を信じろといっているわけではない。いまお前が信じているものを、死ぬまで信じ切ることだ。信仰を持たない? ならばこう言い変えても良いだろう。いまのお前の生活の根底にある習慣をそのまま続けることだ。これが一番簡単なやり方だろう。たとえば食事を毎日三食とるであるとか、毎日決まった時間に寝るとか。逆に、そうした決まり事を一切もたないことであってもいい。大切なのは自分を揺るがさないことだ。自分を否定しないことだ。おまえがいつも自分を否定する習慣を持つのならば、その習慣をやめないことだ。自己憐憫のぬるま湯に浸り続けることだ。

誰かにおのれの価値観を否定されたならば、素直にショックを受けるべきだ。話し合おうとしてはいけない。相手を理解してはいけない。自分を否定した相手に反感を覚えるべきだ。どれくらい自分が正しくて、どれくらい相手が正しいのか。あるいはより正しいような落とし所はどこにあるのか、などと模索してはいけない。つねに自分が正しいのだ。自分と違うものはすべて間違っているのだ。そう信じて生きるべきだ。

そこに疑念が入り込んでしまったら、どうにかうやむやにして解消しよう。信じぬことはいつでも間違っている。

信じることができなくなってしまったら最後、毎日が自己破壊の連続だ。つねに私ではないものが自らのうちにうごめいていることにおびえながら生きていくしかない。自分というものが何であるのかを見失ったまま生きてゆかねばなるまい。

ばらばらに引き裂かれた自己に対して一つの肉体しかあてがわれないことに呪いながら生きていくしかない。逃げることはできぬものだ……

 

しかし何より言えることは、おれの助言など聞き入れぬことだ。おれに二度と会わぬことだ。おれのような人間にも、二度と会わぬことだ。