白昼夢中遊行症

景色が見えないから

過去の日記というものは見ていて気持ちのいいものとは限らない。以下で引いてきたもののうち、特に後半のものは、ずいぶんと深いどん詰まりにいるような視野狭窄に陥っていた頃のものである。当時の私には健全な判断力というものがほとんど残っていなかった。今も私は健全ではないかもしれないが、少なくとも、あのときに比べればいくらかましだ。いま、これを人目に触れる形にするのは、自分の中でそうした過去にひとつの区切りをつけるためだ。

 

知らないから好き

好きなもののことこそ、知ろうとしないことが大切だ。

少なくとも僕はそう思っている。

言い方を変えると、知れば知るほど、それが嫌いになる。

何かを好きでいたいなら、そのことについて新たに知る余地を残しておくといい。

その目にはどんなものにも代え難い、価値のあるものに見えても、この手に触れればそれは取るに足りないものになる。

あるいはそう気づいてしまう。

 

断想171111

私は、今まで出会ってきた全ての人である。

 

断想180226

欲しかったものがいざこの手の中に収まると、途端につまらないものに見えてくる。

いつしか何かを手にするということに臆病になってしまった。

愛するものを、変わらず愛するために距離を置いた。

あの星を愛おしく思うのは、それが決して届かないと、どこかで分かっているからだ(日記:2016/1/1)

 

断つ

やり抜くことと、現状に甘んじて流れに身を委ねることは似ているようで全然違う。そしておそらく、今のままでは後者であるし、ここから前向きになれると思わない。そもそも内部に味方がいないから心細いし苦しみを一人で背負わなければならない。だからここで断ち切る。きっと後悔はするが、辞めなければもっと後悔すると思う。思えば逃げてばかりの人生だ。だけど逃げることだって考えに考えて選んだことだ。決して恥じることはない。ただの自己正当化かもしれないが、それでもいい。全部正しいし全部間違っている。この世界はそういうものだ。

 

断想180615

かくして、私は私の中の一人を手放した。思った以上にあっけないものだった。今になって惜しくなったなどということもなく、ただ、私を表すものが少し小さくなったという感じがなんだか不思議に思えた。たぶん、どんなものも、私にとっては切り離すことのできるものなのだと思う。そうやって、切り離せるものをみんな離してしまって、最後に残るものは何だろうか。それが、私にとって無くてはならないものなのだろうが。もしも、空虚が残るのみであったら、私とは一体何だったのか、最後までわからずじまいでこの世を去ることになるのだろう。いったいこれからいくつの私を手放していくのだろう。空いた手で、今度は私に無くてはならない私を掴むことができるのだろうか。

 

断想180705

みんな、訳のわからないままに大人になっていくんだと思った。俺にはそれが理解できなかった。理解できなかったから、立ち止まってしまった。俺はここに立って、通りすぎていく人たちを見送るばかりであった。

 

景色が見えないから

未だに僕は僕がどうありたいのかわからないでいる。いつか何か見えるだろうと思って、とりあえず大学生になって、一人暮らしして三年目になるが、どうも何にもはっきりしない。そんな曖昧な気持ちのままで、学業が捗るわけもなく、そこに特段の興味も見いだすことはなく、学生としては模範的とはいえず、自分としても楽しくはない。一体何がしたかったのだろうという問いかけは意味をなさなくて、実際は、僕は一体何がしたいのだろうという問いかけだ。それがわからないでいるのだ。東西南北どころか、右にも左にも定まらないでいる。今ここで、どこへ行けばいいのかすらわからない。目指す宝が無いから、その在りかを示す地図だって無い。そもそもここがどこなのかすらわからない。そうやってまごついていると、周りの時間だけが過ぎていく。僕を置いて世界は回る。立ち止まって周囲を見ても、慌ただしく動く世間は、僕の目では捉えられなかった。景色が見えないから、ここがどこなのか、見当もつかないのだ。だから、右も左もない状態でぐるぐるしてる。そんな中で、ここは違うと思うばかりだ。流れに乗れるところはどこだ?流れになれる所はどこだ?止まったままで、見えないものを目で追うだけに命を使うのは嫌なんだ。走りたい。前のめりに転びそうになりながらも、全力で走りたい。そんなの、最後にやったのはいつだろうか。命を注いでみたいと思える何かが必要だ。そんな何かを示した地図はどこにも見当たらなくて、足を出す方向も分からなくて、なんなら歩き方もちと怪しくなってきた。ずっと突っ立ってるから。さてどうしたもんかな。

 

5W法

「なぜ?」と五回唱えると問題の本質が見えるらしい。だから俺もそれをやってみたんだ。そしたらどの問題も、俺の生きてきた人生の無意味に帰着したよ。これが根本的な問題で、解決すべきことならば、もう死ぬしかないじゃん。でも首くくる勇気も覚悟もないから、どうしろってんだ。もし生きるという道に絞った場合、死ぬまで問題を抱えたまま、なにもかも偽り続けて生きねばならないことになる。人生はひとつの舞台だと言うが、その演じる役は一人では演じきれなくて、しかもそれぞれをどこまでも精巧に演じきることを求められる。なぜ俺はここまで追い詰められなければならないのか?自業自得だ。今までろくに考えないで生きてきたからさ。周りに合わせて、みんなが俺に求める答えを演じてきたからだ。なぜそんなことをしてたのか?失望されるのが嫌だったからだ。なぜ嫌なのか?俺は良い子でいたかったんだ。なぜ良い子でいたかったのか?そうしていればいいと思ってたからだ。なぜそう思った?俺はできれば楽して死にたかったんだ。そのうえ勇気と覚悟に欠けていたから、それがなくてもなんとかやっていける道が欲しかったんだ。まあ、今となってはただの不登校の穀潰しだが。しかしそれに甘んじていることができるほどの大物でもない。だから辛いんだ。最終的に死に行き着くんだ、どんな問題も。嫌になるよ、まったく。

そう、そしてそんな一方で、一種の破滅願望が芽生えているを自覚したんだ。自暴自棄とも言えるかもしれない。ここまで来たんだ、堕ちるとこまで落ちればいいや、なんて思考停止に陥ってしまう。本当に、俺はここからどうなるのだろうか。一寸先は闇。たぶんそこにある9割以上が絶望的状況。というのも現状がそうだから。それでも足は止められない。ならばせめてここよりましなことを祈ろう。

 

今日は久しぶりに学校に行った。

今日は久しぶりに学校に行った。今週は一度も講義に出なかった。休むつもりだったわけではない。まるっきり行かないと決め込んでいた日はなかった。いつだって行くつもりでいた。嘘ではない。いつも今日だけは、今日こそはと意気込んでいた。たとえそれが虚勢であったとしてもその意志は偽りではない。

今日は本を返しに行った。今日が期日だったから。延長して一ヶ月借りたが、結局序章すら読まなかった。本を返しに行かないといけないというのは、学校へ行く動機付けの一つであったが、それも効果はなかった。講義には出ていない。本を返しただけだった。そもそも今日の講義はもう終わっていた。〔……〕教授から心配していますとダイレクトメッセージが送られてきた。僕はそれになんて返せばいいのだろうか。最低限、連絡はするようにとも言われた。行くつもりだったから連絡はしませんでした、とでも言えばいいのか?結局、他から見たらただの怠惰でしかない。自分でも、これは単なる怠惰なのではないかと思う節はある。かといって、行きたくないから行きませんでしたと言えばいいのか?たぶんこれも嘘ではない。でもそんなこと言えるはずがない。ただただ動き出せない。お腹がキリキリと痛み始める。

今日は久しぶりに学校に行った。道のりの足は重かった。けれど学校へ行くことができた。ビクビクしながら、本を返したらすぐに引き返したが、二週間ぶりくらいに大学の敷地に足を運んだ。次こそはと今日もリベンジを誓う。それが負担になっていることは知っていても、その意志がなくては全くどうにもならないのだから。でも来週は授業で発表の担当にあたっているから、たぶん一度は行けるはずだ。それがどこまで続くかはわからないが、しばらくは常人のふりをしないといけない。

夕方からは元気になれる。だからバイトには行けるんだ。給料が入って飯も食えるから、動機付けも十分なんだ。今日もバイトがあるから、これで終わり。

 

断想180525

ああ、もうなんか愉快になってくるよね。僕はまともでいようとしても、まともになれないほどに歪んでしまった。ほんとはそんなつもりじゃなかったというのにさ。簡単なことができなくなった。巧妙に、僕の中のいろんなものが噛み合わなくて、動かないように働いている。歯車というのはきわめて単純で、一つ余計なところに食い込んでいれば、それで全体がスポイルされてしまう。たぶん、そんなスポイラーをいくつも見逃してきたせいで、いくつかの機関を台無しにするどころか、台無しになった機関が、他のところのスポイラーとして作用するようになった。噛み合わなくなった歯車は、他のところに連結するだけで、それを巻き込んで動きを止める。そうやって、僕の大部分は使い物にならなくなってしまった。こうなった責任はというと、全部自分に帰せられるように思う。しかしそれでも、どこかで別のものに原因を見つけようとしてしまう。そんなしょうもない自分に嫌気がさしてくるが、どうしようもない。そうでもしないと正気を保つことができない。

〔……〕

かつての友人からも心配されている。今何しているのかと問われた。俺は自分自身に対しての言い訳を必死で考えているのだ。そうでもしなければ正気を保つことができない。この白とも黒ともいえない感情を何かに転化させたいという気持ちもある。実際にはなんて答えようか。彼に対してもだし、教授の言づてを買って出た同級生にもなんらかの反応をしなければならない。でも、何か言って取り繕える時期はもうとっくに過ぎていると思う。もはや何かを言う資格もないように感じる。それでも何か言わなければと思うのはなぜか。

眠りだけは裏切らない。目をつむれば何か大きなものに包まれて、その中でだけは何も気に病むことはなく、ただ目を覚ますことだけを案じて、あとは身を任せていればいい。最近は自らそれを遠ざけて、それでも気づけば眠りに落ちているという日々が続いていた。しかしそれは眠りとは言い難いだろう。そうだ、今僕に必要なのは眠りだ。まるで赤子のように、大きなものに抱かれて、優しい歌を聴きながら、そうして眠りにつくのだ。

 

それだけが僕の

あと少し、もう少しだけ心を開くことができていたなら、僕はこの人たちに救われることができたのだろう。しかし実際にはそう上手く事は進まない。事というよりも心の問題であるが。

「あの…私と、一緒にお昼ごはんを食べる約束をしてくれませんか?」

「そうすれば、私はその約束を胸に家を出て、学校に通えると思うんです」(出典不明)*1

なんて、こんなセリフを言えるようなら、ここまで追い込まれることもなかっただろうよ。でも、そんなことを言える人はいなかった。心が堅く閉じすぎていたのだ。それをこじ開けることの出来る怪力の持ち主、しかもそれをこの僕に向けるような物好きな人間には未だ出会っていない。一応言っておくが、こちらから心を開く事は到底不可能だ。これは一種のヒステリーのようなものだ。理解してもらわなくても構わない。心は理解されるものではないから。それでも、知ろうとしてくれる人、共感することができる人、認めてくれる人、そんな人が一人でもこちらに手を差し伸べてくれたら、僕はすぐさまその手を取って、この暗闇を抜け出すことができたのだろうか。救われたかった。

 

授業をバックレる

おれは授業をバックレる。自分が発表担当の会をバックレる。動悸が激しくなって、胃がひっくり返るような気分だ。今更おれにどうしろってんだ。もう俺はあきらめてしまったのに。立ち上がれなくなるほど打ちのめされたというのに。

やらなきゃいけないことをやらなくなった。人に迷惑をかけるようになった。むろん、悪い意味で。そうやって信用を失っていくのだ。もとから無い信用を。学部にまともな意思の疎通を行ったことのある友人はいない。いないから、おれのことをどう思われてるかもわかったもんじゃない。この先どう思われるかも。正直、研究室の人たちには、おれは死んだことにしてもらいたい。もう普通に大学生活を送ることはできない。まともな人生を生きることもできない。死にたいと言いながら死なずに、汚いものを辺りに吐き出しながら生きるのだろう。

そうだ、おれがどんなにクズな人間になってしまったとしても、この世界は回るし、おれの人生は続いていく。ならば、おれは開き直ることができれば、楽になれるのではないのか。いや、そうでもない。開き直ることなんておれにはできない。したくないというのもあるが、心の底にあるものをいつも意識してしまうおれには到底できないことなのだ。

 

眠れぬ言い分

昼夜の逆転した生活を送っている。心安らかに眠ることができたのはいつが最後だったか。

おれには、友達と呼べるような仲の人間がいなかった。他人を信用することができなかったおれは、他人に対して心を開くことができなかったから、そんなおれの周りに人がいないのは必然であったと言えるだろう。そんなやつが、まともな人生を送れることはあり得ないと、薄々そう感じていたから、もともと知らないことを知るのが好きだったおれは、大学に入って将来の道を見出そうとした。けれどもそれは間違った選択だったのかもしれない。そこで見たものは、正しい生き方で生きることのできる人間達と、そんな人々の中で、どれを取っても劣るものばかりのおれの無様な姿だった。おれが少しばかりの楽しみを見出していたものに対して、おれのそれよりも多分に楽しみを見出せる人間がごまんといた。ならば、おれはここで何をしようというのだ。そこにいるには不足しかなかったおれは、いつしかまばらに自主休講を繰り返すようになり、ついには講義に出なくなった。

まったく講義に出なくなったのが、つい2、3週間前くらいの話だ。おれは自分が好きかもしれないことに打ち込もうとした結果、世間的には大してそれが好きではないということを知らされ、そして、おれがそもそもこの世界で生きるのに向いていないということを嫌というほど思い知らされた。いったいおれのどこに人より優れたものがあるのだろうか。そんな事を考えるようになると、よりいっそう無力になった。何かをするのをすっかり止めてしまった。歩くのを止めてしまった。

布団の上で、寝たり起きたりを繰り返すだけの日々を送っている。眠くなったら寝て、目が覚めても起き上がるのは億劫で、腹が減ればしぶしぶコンビニまで足を運んで、特に食べたいものがないと、味の濃いスナック菓子を買う。ひとたび食い始めると、たとえ食いすぎで気分が悪くなってもそこにある食べ物を腹のなかに放り込む。胃の中がスナックの油でむかついて、それを上書きしようとして、また何か買いに出る。そんなこんなでまた眠くなれば横になって眠るのだ。そのくせ、夜になったら大抵は目がさえて、眠れない。こうやって昼夜が逆転する。夜は怖くて眠れないのだ。何かに追われているようで、そこから必死に目をそらしているようで、現実を見ないためにおれは夜になったら起き出してくる。夜に横になれば、色んな懸念が、さまざまな不快の感情とともに押し寄せてくるのだ。不快なことを逃れるのは決して罪悪ではないだろう。以上がおれの言い分だ。

 

はちがつついたち

もう八月になってしまったよ。

今年の七月は瞬く間に過ぎていった。それにはおれが不登校になったことも関与しているのか、多分しているだろう。寝て起きて、飯を食い、バイトの日はバイトに行き、そうでなければ家に引きこもり、外界に関心を持たず、まるで精神異常者の世界観で生きている。統合失調症患者の脳は外界との繋がりが断たれているという。それゆえに、抱く妄想は必ずナルシシズム的な様相を呈している。いつかおれもそんな風な精神病者になるのだろうか。孤独な世界観の中で、唯一残った自分の世界を守るために、外界と食い違いを起こして、物理的にも孤立するのか。少なくともおれは孤独のうちに死んでいく。生まれた時からそう感じていた。今は順調にその運命付けられた道をたどっていると言えるだろう。それならば、まだ孤独ではないうちに、おれの死を、悲しまなくてもいいから、あいつは死んだのかと、一瞬でも気に留める人がいるであろう今のうちに、この命を絶ってしまおうかと、ふと思うことがある。だからといって、それを実行する度胸はない。そうだ、こんな奴は一人でひっそり死んでしまうのがお似合いなんだ。火をつけた線香が灰になるように、ふと誰にも気づかれないうちに消えてしまうのがお似合いだ。そして香炉の灰に紛れるように、この大地に戻っていくのだ。分子になって世界のなかに、跡形もなく……

もう八月になってしまった。七月は何もできなかった。一冊の本を読み終えることすらも。ドストエフスキーは分からない。〔……〕『貧しき人びと』を六月から読み始めて、七月中に読み終えることはついにできなかった。短い作品であるのだが。翻訳も平易な言葉であるのだが。

これはおれの価値観で、しかも上記の本に関係ない話だが、貧しいということはそれだけで罪悪であると思う。貧しい人はそれだけ行動の幅が狭まる。明日どこに食べに行こうかなんて考えて、提示される選択肢が、カップヌードルか、カップ焼きそばか。少しの贅沢として、牛丼屋で牛丼を食べるか。それくらいしかないんじゃないか。そして、そんな狭まった道を辿っていくうちに、否応なしに不道徳へと駆り立てられていくのである。だから貧しいことは罪悪なのではないだろうかと思うのである。それは誤りであると言う人間は多いと思う。もっとも、おれは無学な若者であるから、少し世間一般の認識とずれた考えに酔っているのかもしれない。だが、おれは貧しさ故に過ちを犯す者を悪だとは思えないのである。悪いのは貧しさそのものだと思うのである。そして貧しさの中での安住が。どうしようもないのは仕方がないが、それでも言い訳を繰り返して、貧しさの中に自分を見出してしまったら、すでにそのものは悪人ではないだろうか。

何が言いたいか?おれは悪人であるということである。おれは孤独のうちに死んでいく運命を認め、その一種の貧しさの中に自らのアイデンティティを見出している。だから希死念慮なんてものがおれの頭の中から離れないのだ。自らの心臓にナイフを突き立てる空想をしては、えも言われぬ快感を得ているのだ。それは罪悪であると断言しよう。そう、おれは悪人である。そしてそのことにもすでに心地よさを感じているのだ。

*1:この部分は引用ではなく私の創作かもしれない。しかし、少なくともこの発想の源はどこかで読んだものだったはずだ。