白昼夢中遊行症

断想

私が世界に求めている世界のあり方にかかわらず、世界というのはいつでもその通りのあり方しかしない。自らの視界をゆがめれば、自分の思うとおりの世界が見られるのだろうが、それでも常に、この世界はある一通りのあり方でしかない。しかし、それと同時に、私たちはいつだって誤った世界しか目に映せないのだ。

とはいえ、そもそも私は正しく世界を見ようとしたことがあるのだろうか。正しい世界のあり方を見ようとすることができるのだろうか。私はいつもこうあってほしいという偏見を持ってこの世界を見ている。そして、それと違うあり方に失望する。だが、私のそうあってほしいあり方と異なる世界のあり方というのはすでに私の願望というゆがんだレンズを通しているから、世界のあり方を正しく映しているとは限らない。もしかしたら、私がそうあってほしいと願っている、まさにそのあり方というのが、世界の真のあり方かもしれない。私は、よこしまな望みのせいで、私の望みがすでに充実しているということを見逃してしまっているだけなのかもしれない。

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風呂場というのはもっとも思索を深めることのできる場所の一つだ。しかし、そこで考えたことを残しておくことはできない。風呂場に紙とペンを持ち込んだり、その他の何らかの記録媒体を持ち込むことができないでもないが、そうした途端、風呂場は思索を深めるのに適した場所ではなくなる。

私はつい先ほど、何かを愛すること、ひいては信仰についての確信へ至ったような気がした。しかしそのアイデアも、風呂場から持ち出そうとした途端に泡と消えたのであった。

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私がどんなに表現力の不足にぶつかろうとも、思考の浅さに自分さえもあきれるようなことがあろうとも、日々を日記として書き留めるのには、それなりの理由がある。なかでも一つの大きな要因と言えば、それを数年後に読み返すためである。私には自分が高校生だったときの記憶や、それより若かったときの記憶がない。さして思い出す必要のある記憶がないだけなのかもしれないが、それでもなにか自分から欠けてしまっているものがあるという感じがあるのは寂しいものだし、今の私というもののルーツが貧弱だというのは、自らのアイデンティティを危ういものにもするだろう。

日記を読み返すというのは、自分という、もっとも自分に親しい理解者の話を聞くことである。それは、少なくとも寂しさを紛らわすことのできることであるし、さらには、今の自分というのがちゃんと自分が望んだあり方をしているかどうかを確かめる一つの基準にもなる。そうして過去の自分の向いていた向きを確かめることで、自分の方向性を修正したり、その向きで正しいのだという確信を強めたりするのだ。

 

無題

薄暗い部屋で目を覚ます。 時間を確認しようと手探りで携帯電話を探すが、すぐにあきらめた。 日はすでに上りきっているようで、カーテンを開けると南向きの窓からまっすぐに日差しが入ってきた。 ため息をつく。 憂鬱な目覚めだ。 昨晩、徹夜で仕上げようと思っていた大学の課題はすでに手遅れになっていた。 夜明け前から昼までたっぷり眠ったとはいえ、姿勢が悪かったのか腰が痛い。 昼からの講義に顔を出す気にもなれず、かといって強い日差しに目は冴えてしまった。 外の空気に触れたいと思い、ジャケットを羽織り外に出た。 下宿近くの商店街は寂れており、平日の昼間だということもあって、高齢者ばかりが目についた。 そこへ行くといつも思う。 私の人生はこのように枯れていくのだろう、と。

晩秋の空気はまさに死へと向かう老いの様相を呈していた。 色とりどりの木々はみな単色へと移り変わり、葉を落としていった。 近所の花壇からは花ではなく雑草が茂っていた。 このようにして季節は死へと着々と足を進めていた。 私もそれに従って、歩みを進めていた。 空は晴れていた。 〔……〕