白昼夢中遊行症

あれからもう一年がたったのか。

もうじき正月休みが終わる。去年は大学を休んでいたので今年の年明けがとても慌ただしいものに感じられた。とはいえ、思えば去年のほうが立て込んでいたのかもしれない。

去年の正月に祖父が死んだ。祖父が死んだとは言っても、長い間会っていなかったので何の感情も持てなかった。ただ、何の感情も持てない薄情な自分や、生前に会うこともできたはずなのに会うことをしなかった自分がなんだか哀しかった。

親戚の死に立ち会うのはそのときが初めてで、棺桶に収められた亡骸を見たのもはじめてだった。あのときも、そして今も、どこか距離を感じている。いまだに私は死に対してよそよそしい。いまだに私は死について、観念でしか語れない。ただ、あのとき見た祖父の顔、整えられた顔を忘れてはいない。なんとも言えぬ表情をしていた。悲劇的なところもなければ、ただの安らかな寝顔ともどこか違うような表情であった。

あのとき見た顔に死の観念を当てはめていいものか、私には判断がつかなかった。というのも、そこにはすでに生がなかったからだ。私は生者としてのその顔を知らなかった。ただ、死に化粧を施された顔を見るのみだったから。遺影もあることにはあったのだけれど、まるで違う人に見えた。写真の中にあった人にくらべて、眠っていた人はずいぶんと痩せていた。

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あれからもう一年がたったのか。

私の今年の抱負は、去年と特に変わらない。少しでもましな人間であろうとすることだ。素晴らしい人間である必要はない。しかし、すべてを投げ出してもいけない。少しでもましな人生を送るためには、少しでもましな人間でいなければいけない。それ以上もそれ以下も特に何もほしくはない。

私は生まれてこの方、「死」にしか興味がなかった。しかし、「死」とは生きることとなしには理解できないと気づいた。それと同時に、自分が恥ずかしい気にもなった。というのも、今まで「死」へ傾倒していたために、いろいろな問題を見落としていたことに気づかされた。そして、そのせいで「死」を理解することからも遠ざかっていたことに気づかされた。

「死ぬのも生きることのうち」と、スウェーデンのとある刑事は言っていた。このことは、「生きなければ死ぬこともない」ともとれる。私は何かに対して自らの生を注ぐことなく生きていたから、私はいつまでたっても「死」に対して何か別の理想的なものを背負わせていたし、実際の死に立ち会っても、どこか他人事にしか見えなかった。自分もまた、このように死ぬのだと、観念でしか理解できなかった。私は生きてさえいなかった。

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祖父の顔をのぞき込んだとき、私が何を恥じていたのか、今はまだあまりまとまっていないようだ。ただ、どこか悲しさの余韻だけが長く尾を引いている。まずはこの正体を知りたいと思った。そのためには生きてみなければならないと思った。生きるためには、少しでもましな人間であろうとすることくらいしか思いつかなかった。何が人間として最善なのかは分からないけれど、幸い、何がよりましな人間としてのあり方なのかは何となく分かる。だから、当分の間はそれを大事に抱いて生きてみようと思ったのだ。

だから今年も私は少しでもましな人間であるためのゆるやかな試みを続けることを抱負とする。

今週のお題「2020年の抱負」