白昼夢中遊行症

夢から逃れるには

目覚ましをかけ忘れていたら、だらだらと変な夢を見てしまって、気づけば12時を過ぎていた。私にとって夢というのは、意味不明なものではあるも、この不可解さが心地よくもある。だから、一度目を覚ましたあとの、二度寝、三度寝というのが好きなのだ。逆に言えば、何か対策をしていないとその日の予定お構いなしに、心地の良い無秩序の中へと身を任せてしまうということでもある。だから休みではない日には私は、一度目のアラームを止めに行った時、そのままベッドに戻らずに、やかんに火をかけるのである。かろうじてその単純な動作くらいならば可能だ。そしてやかんに火をかけたからには危ないので眠ることはできない。横になってうとうとはするが、夢見るほどの睡りにはならない。

今日は目覚ましをかけ忘れていたから、一度目を覚ましはしたものの、アラームを止めるためにベッドから出るというのがなかったので、やかんに火をかけるというのもなく、そのまま夢見の混沌へと身投げした。

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 うまく夢を見るやり方

 ——すべてを延期すること。明日やってもかまわないようなことをけっして今日やらないこと。
 今日でも明日でも、どんなことであれするには及ばない。
 
 ——これからすることをけっして考えるな。それをするな。
 
 ——人生を生きよ。人生によって生きられるな。
 真理にあっても誤謬にあっても、快楽にあっても倦怠にあっても、ほんとうの自分であれ。それは夢見ることによってしか到達できない。なぜなら現実生活は、世間の生活は、自分自身に属しているどころか、他人のものであるからだ。だから、人生を夢で置き換え、完璧に夢見ることのみに腐心せよ。生まれることから死ぬにいたるまで、現実生活のどんな行為も、ほんとうに行動しているのは自分ではない。動かされているのだ。生きているのではなく、生きられているのだ。
 他人の目に、不条理なスフィンクスになれ。音を立てずに扉を閉め、象牙の塔に閉じこもるのだ。そして、この象牙の塔とは自分自身のことだ。
 もし誰かがそんなことはすべて嘘で不条理だといっても、信じるな。しかし、私が言うことも信じるな。なにも信じてはいけないのだから。
 
 ——すべてを軽蔑せよ。だがこの軽蔑によって窮屈にならないように。軽蔑によって他人に優るなどと信じるな。軽蔑の高貴な術のすべてはそこにある*1

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おれは集中して何か一つのことをするというのが絶望的にできない。そのうえ、何かに取りかかろうとするとき、そのやる気を起こすのにかなりの時間がかかる。なのでおれはやらないといけないことが多くの場合、できずじまいに終わる。つねに何かをやり損なっている。何をしたって達成にはいたらず、出来損ないだけがおれのなかに積み上がる。そうしたおれ自身が、出来損なった人間だ。今まで生きてきて、何かやり遂げたことはあっただろうか。と自問すれば、なにもないと答えるほかない。おれの成してきたことはどれも何かのやり損ないだった。つねに自分の目標を下方修正してなんとかやり過ごしてきた。なんとかそれで達成したという事実は得ていたけれど、達成感はなかった。目標に向かって走り続けた結果、それでも無理だと分かって自らの目標を見直したわけじゃない。散々怠けに怠けた結果、自分を変えることもおっくうで、それで挑む相手を変えたにすぎない。何もやってないのだから達成も何もありはしない。

おれは何も成し遂げなかった。そして、生きることだって成し遂げずに死んでいくのだろう。「死ぬのも生きることのうち」。しかし、生きなければ死ぬこともない。生きなかったがゆえに、死ぬことさえも満足に成し遂げられずに、おれはいったい、どこへいくのだろう。

 

 

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

 

 

*1:フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』(澤田直 訳、平凡社ライブラリー、2013)pp. 316–318