白昼夢中遊行症

いつもどおり、外のことが分からない。

外のことが分からない。しかし、それがどうして異常事態なのかも、それの何が問題なのかも分からない。

確かに、この数ヶ月のうちに、世相はすっかり変わった。おれもおれで、外に出る機会はすっかり減ったし、実際に他人と顔をつきあわせる機会もなくなった。しかし、それで何か分からないことが増えたかといえば、そうでもない。どちらにせよ、おれには外のことが分からないのだ。他人が何を考えているのかも、世の中で何が起こっているのかも、この国がどうなるのかも、外交問題も、地球の自然環境も、天体の運行も、神の思し召しも分からない。今も昔も分からない。分からないのはいつものことだし、それがどうして問題なのかも分からない。

「外のこと」という言葉が何を指しているのかに関わらず、おれはもとより何にも分かっていない。おれは自分自身についてさえ、内観によって知りうる以上のことは分からない。自分の内的な観点でさえも、おれにおれについての正しい知識を与えてくれているのかどうか分からない。他人のこととなると、もっと分からない。そいつの振る舞いや、発した言葉がそいつの本心なのかどうか、どうやって知り得るというのだろうか。そいつの表情の微細な変化からでさえ、そこから何かを知ろうなんてのは無謀な試みでしかない。

しかしそれでもおれはなんとかやってこられた。知らなくたって問題はない。マニュアルのとおりに、入力に対して適切な反応を返すことができさえすれば、とくに生きることに支障をきたすことはない。そして、そのマニュアルを得るのに、何か特別なことを知る必要はない。表面上の振る舞いをまねしていればいいだけだ。みんながやっていることをすればいいし、みんながやっていないことをする必要はない。最近ではみんな外に出るときにはマスクをしているから、おれもそれを真似てマスクをして外に出る。多くの人が店に入るとき、アルコールで手をぬらしていくから、おれもそれに倣う。そこに何ら知識はない。しかしそうしていれば極力問題を起こさずに生きていくことができると知っているのみだ。

外のことが分からないと言うけれど、おれからすれば、そのことの何が驚くべきことなのか分からない。外のことが分からないということを嘆いている人々が分からない。そもそもそういう人がいるのかも分からない。外のことは分からないものだ。しかし、それはいたって普通のことだ。

おれには、いつもどおりに外のことが分からない。

今週のお題「外のことがわからない」