白昼夢中遊行症

おれは記憶のために書いているのだということを覚えているためにおれは記憶のために書いているのだということを書いている。

おれは、現在のおれの意識を切り抜いておいて後から参照するために日記を書いているし、書かなければならないのだ。……とかいったことを、おれは定期的に書かずにはいられないのである。さもなくば、おれの「記憶のために日記を書かずにはいられない」というアイデンティティを喪失してしまうからである。このアイデンティティを失った先にあるのは、二つの道だ。一方は「書かなくても覚えていられる性」を獲得した自分、他方は「書いても覚えていられない性」を獲得した自分である。前者であれば特に困ることはないのだが、そうなる代わりに後者へとシフトしてしまうということもありうるというリスクがある。

自分の内的な気づきについての記憶を保持できなければ、おれはおれの自己同一性も危うくしかねない。日記を書くことの他にアイデンティティを保つ方法として考えられるのは、他者のおれの認識におれの人格の同一性を委ねることだが、困ったことに、おれの周りには他人というものがいない。少なくとも、おれを認識している他人というものが存在していないのである。だから、おれはおれひとりで自己の同一性を保持する必要がある。

こういうわけで、おれは、おれがおれであるために、おれの中で起こったこと、もしくは、おれの周りで起こったことがおれの中に及ぼした影響について、まめに記録をとっていなければならないのだ。

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ところで、おれはおれという人格の同一性を完全にするためには、夢——おれの生きるもう一つの世界——についての記録もとっていなければならないのだが、おれはその記録をとるためのわずかな記憶保持能力をも失ってしまったがために、そちらでの出来事を記録できないでいる。したがって、そちらの世界にいるときの自分というものがすっかり失われてしまっているのだ。わずかに残るのは、おれはこの人生の半分を夢に生きているという実感だけだ。おれは常に自分の半分が欠落しているという感じに悩まされている。

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 物事についてわれわれの知っている法則では説明できないことが、毎日この世に起きている。毎日、そうしたことは話題にされるとすぐに忘れられ、起きたときと同様に神秘的に去り、その秘密は忘れられる。それが、忘れられなければならないものの法則だ。なぜなら、説明されえないからだ。日の光のもとに目に見える世界が規則的に続く。異質なものが陰のなかからわれわれを窺う*1

 

*1:フェルナンド・ペソア『不安の書(増補版)』(高橋都彦訳、彩流社、2019)pp. 386–387