白昼夢中遊行症

眠れぬ夜がなくなって

そういえば、私が比較的コンスタントに日記を書いていた頃は、スマホとかでも文章を入力していたのだが、大学の授業がリモート形式になった影響などでPCで文字を入力する機会が増えたことで、今ではその習慣がなくなった。こうしたことも日記を書く頻度が落ちる原因になっているのかもしれない。

自分はもともと講義ノートは手書きで取る人間で、その時は手書きでも日記を書いていた。日記を書くのは手書きか、それとも携帯でぽちぽち入力するかだった。手書きで文章を書くというのは、自分にとってはかなり肩の力を抜いてできることで、論理性とか文章の展開の仕方とか、そういったものに気を配らずに、気楽に自分の思うところを書くことができた。携帯での入力は、移動しながらふと頭に思い浮かんだ言葉を、一言二言で書き留めておくのに適していた。これら二つが私の主な日記の媒体であった。

遠隔授業が始まって、どうせPCを使って授業を受けるのならば、同じ画面でノートをとる方が目線の移動が少なくて楽なんじゃないかと思い、講義ノートの記録媒体を完全にデジタルに移行した。この方が、後から読み返すときにキーワードで検索したりもできて便利だという理由もあった。

流行病の関係で移動時間が格段に減った。散歩もあまりしなくなった。1日の歩数はどんなに頑張ってもせいぜい4,000歩程度である。10,000歩も歩くような日は、ほんとうにごく稀なことになった。だから、歩きながら何かを考えるといった機会も少なくなった。少なくなって、次第に歩きながら何かを考えるという習慣もなくなった。いまや私はただただ無心に歩いている。思索のうちに迷い込むことなく、私は現実ばかりを歩き回るようになった。そのために、携帯で何か考えたことを記録するといったこともなくなった。

しかしそうした媒体の変化による、書くことの変容以上に、私を書くことから遠ざけたものがあるように思う。私は眠る際に、自分の声を押さえ込む術を得てしまった。このことが、私が日記を書く習慣を失ってしまったことに深く関係しているように思う。私はもともとほとんど不眠症みたいなもので、布団に入ってから眠りに落ちるまで、普通でも2、3時間、うまく眠れないときにはそのまま夜が明けることもある。そういう時、私の頭の中には、いくつもの私の声が渦巻いているのである。ときに私は開き直り、こうした声と向き合って、それらと対話し、そのことをノートに書きつけたりもした。

しかし私はある時から、そうした声をうまく押さえ込み、うまく眠りにつく方法を会得してしまった。人の喋っている声をひたすら流しておくのである。それは何か空想の種になるようなものであってはいけない。また、何度も聞いて慣れ親しんでいるものがよい。それでも、ついつい思考をやめて、耳を傾けてしまうようなものがよい。私の場合はラーメンズのコントをひたすら流している。私にとってそれはちょうどよいもので、YouTubeにアップされているものから、とりあえずどれか一つの公演を流しておけば、それが終わるまでに眠りにつくことができる。私はかれこれ1年以上、この方法で眠っている。眠れない夜というのがなくなった。眠れない夜がなくなった代わりに、自分の声に耳を傾ける術を忘れてしまった。そうして、私は日記を書くきっかけの一つをほとんど失ってしまっていたのである。

眠れない夜に向き合わず、すなわち自分の声に耳を傾けず、毎日ちゃんと眠りにつくというのは、この現実の世界で生きていくには重要なことである。しかしその一方で、寂しいことでもあるように私は思う。特に、私は私自身を除いては、まともに会話をするような相手がいないのである。眠れぬ夜、私に語りかけてくる声や、私の言葉の集積としての日記。これらを除いて私に友と呼ぶべきものはおらず、したがって、私は本当に私ひとりになってしまうのである。ただただなにも語らず過ごす日々というのは、存在しないも同然で、存在しない日々を生きる生活というのは、ほとんど生きていないようなものだ。

自分の声に耳を貸さずとも、語りかけてくる声に事欠かない人間は、それでいい。日記など書かずとも、何かを語りながら生きることができる。生きられた生というものを感じながら生きることができる。しかしそうした言葉に事欠いた人間が他方にあって、そうした孤独な者こそ日記を書かなければならない。

 

……

とかいったことを、私はいま電気の消えた部屋で、ベッドの上にうつ伏せになりながら、タブレットで入力している。こうした、眠りの淵で何かを書くというのも久しぶりで(とはいえ、かつてはタブレットではなく携帯で入力していたのだが)、なんだか懐かしい気がしている。私はしばしば、私に語りかけてくる様々な声に駆られ、それがひと段落つくまで携帯のメモ帳に入力していたものだ。あるいは、すっかり開き直って、目が冴えるのも構わず、携帯の懐中電灯を頼りに、ペンとノートを手にして色々と書きつけていたものだ。

どうしてか、ふとこうした夜が懐かしくなったのだ……

 

……

最近は日記についてのことばかり書いている。それしかテーマがないというのもあるが、以前のような日記をかけなくなった自分自身への寂しさ、というのが第一にあって、それによって日記のことばかり書いてしまうのだろう。以前のような、というのがそもそもよくわからないが、なんというか、私は私自身について、以前ほど考えなくなっているような気がしているのだ。その原因の一つは、明らかに、眠れぬ夜がなくなったということだろう。何度も繰り返すことになってしまっているが、私の主な思索の種というのは、眠りの淵に語りかけてくる私の声なのである。そうした声を押さえ込むことの代償として、私はひどい孤独に陥ってしまい、しまいにはそれを懐かしむことしか書けなくなっているのである。