白昼夢中遊行症

断想

運命論と決定論について少し前に(あくまで自分の理解の上での)違いを述べたが、私は運命について、もう少し何ごとかを述べたいように思う。私はそこで可能世界という道具を持ち出すが、ここではそれを「この現実世界における事物のあり方に何かしらの変更を加えてできあがる世界」といった程度にとらえる。

 

bounoplagia.hatenablog.com

 

ある熱狂的な支持を得ているミュージシャンがいたとする(仮にこれを太郎としよう)。このとき、「太郎はミュージシャンである」という文がこの世界において真である。そしてまた、常識的に考えれば「太郎はミュージシャンではないこともできた」という様相文も真であるが、この文が真であるのは、少なくとも一つ「太郎はミュージシャンではない」ということが真である可能世界が存在している(と考えうる)からである。

しかし、ここで太郎がミュージシャンであることが運命ならば、「太郎はミュージシャンではない」ということが真であるような可能世界は一つも存在しない。すべての可能世界において、太郎はミュージシャンとして熱狂的な支持を得ているのである。どの可能世界をもってきても、太郎はそこでミュージシャンとして生きているのであり、このとき、太郎はがミュージシャンであることは運命であるといわれるのである。

ただし、このとき、太郎がミュージシャンであることが運命づけられていない可能世界は考慮されない。なので、こう考えることもできる。太郎がミュージシャンであるすべての可能世界において、太郎がミュージシャンであることが運命づけられている、と。われわれがそのことを「運命である」と見なすのは、それが成り立っていない世界のことを(しばしば意図的に)見落としているのであり、われわれはその上で「おれがミュージシャンになることは運命だったのさ」とか「わたしたちは結ばれない運命なのね」などと言ったりするのである。運命というのは、それが成り立っている世界にかぎり運命なのである。運命というのは、それが成り立っている世界にかぎるという形で、その必然性を先取りしているのである。つまり、運命というのはわたしたちが自分の状況をさも逃れようのないものとして記述する修辞的表現にすぎない。それとも、運命というのは可能性に先立つのだろうか。正真正銘、すべての可能世界において成り立つのが運命なのだろうか。運命とは、それがあるとき、世界のさまざまなありようがその一点においては一様に定められてしまうようなものなのだろうか。

私はこれを書きながら、自分が混乱に陥っていることを自覚している。可能世界について、私は可能性と必然性を考えるときに用いる思考の道具であり、道具として考え出された虚構の存在であると考える。つまり、私は可能世界が実在するか否かについては否と答える。したがって、私は運命の実在について、可能世界を用いては何ら言及することはできない。ゆえにその厳格さも、よく分からないとしか言いようがない。

しかしもう少し続けよう。可能世界を考えるとき、わたしたちはもともと、その範囲をある程度狭めて考えている。たとえば、わたしたちとまったく異なる論理体系を持った世界というのも考え得るのであるが、わたしたちはその世界を考慮に入れることはあまりない。たとえば、「すべてのカラスは鳥類である」といったとき「鳥類ではないカラスが存在する」ことはありえないとわたしたちは考えるが、異なる論理体系を持った世界であれば、「すべてのカラスは鳥類である」ことと「鳥類ではないカラスが存在する」ことが共に成り立つこともありうるのだ。しかし、わたしたちはそうした世界が考え得るのを認めながらも、これらを意図的に無視している。とするならば、運命というのも、その運命が成り立つ世界において運命であるということを認めるのはそれほどおかしなことではないかもしれない。

私には、少なくとも今の私には運命とは何か、それは実在するのか否かを明確に結論づけることはできない。この混乱が特に解消されることもなく、この文章は終わってしまう。しかし、そもそもこの論考は学問的な考察と呼べるものではなく、たんなる思考の遊戯にすぎない。なので、自分が満足したところで終わってしまってかまわないと考えている。