白昼夢中遊行症

断想

家にこもっていると、外界から刺激を受け取ることが少なく、そのために頭も動かず、日記に何か考えたことを書こうにも、その日あった事柄を列挙するくらいのことしかできないのだが、家にこもっていると、そこで遭遇する出来事というのも外に出たときに比すればどうしても少なくなるもので、したがって書くことのできる事柄というのもかぎられてくる。

今日は散歩をしなかった。食料の買い出しのために少し外出したのみで、それも寄り道せずにまっすぐ行ってまっすぐ帰ってきたので、スマートフォンに記録されている今日の歩数はたかだか3,000歩であった。とはいえ、これがいつもに比べてどんと少ないかといえば、そうでもなく、いつもはこの倍歩いているというくらいのものらしい。体感では普段はもっと歩いている気になっていたのだが、思えば散歩といっても休憩ばかりに時間を費やしていて、たしかに、そんなに歩いていないようにも思う。

どうして今日は散歩に出なかったのかといえば、雨が降っていたから、というのが第一に来るのだが、その他にも、自分の時間の使い方を少し変えたかったというのがある。

私の大学の授業というのは、少なくとも前期のあいだ、講義形式のものについてはオン・デマンド式で開講する形になっているのだが、これまで私はあえて、本来のスケジュールとおなじように講義を受けるようにしていた。自分のスケジュール管理に自信がなかったからである。しかし、決められた時間通りに授業を受ける、というのがそういつまでもできないのが私という人間であって、最近ではだらだらと講義を受けつつ、その日のうちにできなかったものは土日に回すようになっていた。そんな講義の受け方が続くうちに、やがて講義を受けるのにいっぱいいっぱいになっていて、毎日散歩の時間を設けつつ、ゆとりを持って講義を受けられるのはいいが、予定のない日というのがなく、自分のやりたいこと、というか積んでいる本、特に返却期限の迫っている本を読めないでいる(延長したので返却期限には余裕ができたけれど)。

しなければいけないことが残っていると、それが頭の中の一時記憶領域を占有して、何ごとにも集中できなくなる。そうなると、本を読もうにもぜんぜん先に進まないし、夜眠ろうにも、明日はこれをしなければ、いや、どうせなら今起き出してやってしまおうか、などと考えてしまい眠れない。頭の中を何かに圧迫された居心地の悪い時間を過ごすというのはストレスのかかることでもある。そういうわけで、少なくとも土日にまで授業の予定が入り込まないように、前倒しでできることは先にやってしまおう、そういう時間の使い方に組み替えようと考えていたのであった。

今日は雨が降っていたので、ちょうど散歩にも行く気が出なかったし、前倒しにできる授業を前倒しして受けていた。だから何も身の回りには特別なことは起こらなかったし、私の内心もまた特に大きく揺れ動くこともなく、うろ覚えの耳学問にもとづいて雑な論考を書き起こすこともなく、いたって何もない一日を過ごした。

時間を作りたいと思ったのには他にも、最近さぼっていたけれど、そろそろ卒論のための研究を再開してもいいかなと思いつつあったというのもある。少し前にゼミで途中経過の報告を終えたあと、しばらくの間、私は最低限自分に課したノルマ以上のことをやらなかった。そのノルマというのも、研究とは直接関係のないもので、論理的な思考力や本を読む能力を落とさないためのストレッチのようなものであって、「毎日何かに取り組むこと」を続けるためのものであった。一つ発表を終えると、発表の準備のためにいつも以上に自分の研究に専念しなければならないことによって、その反動で気が抜けるのと、なんだか自分のやっていることに飽き飽きするのとで、自分の研究に手をつける気が起きなくなるのだ。しかし、しばらく時間をおいて、またぼちぼち論文でも書籍でも読んでやってもいいかなと思い始めたのである。そのための時間も確保しておきたいと思ったのである。

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そういえば、今日目が覚めたとき、これで一年が折り返すのかと思った。そのことでぶつぶつと何かを述べてやろうと思っていたのだが、すっかり忘れていた。

もう6月が終わるのである。そして6月の終わりというのは、だいたい一年の折り返しにあたる。厳密にはどうか知らないが、12か月の半分が終わるという意味では間違いではないだろう。時の流れは速いのだろうか、遅いのだろうか。そんなことを人はしばしば問うけれど、そもそも時間とは流れるものなのだろうか。時間というのはただの広がりの一つにすぎず、わたしたちはスライドショーのように次々と現れてくる時間的部分を見ているのにすぎないのか。つまり、わたしたちにとってそう見えているにすぎないのだろうか。時間とは何か、とかいった形而上学に陥りがちなのは私の思考の癖であるが、この話題についてはどういう対立があったのかを覚えていないために、いきなり語り出すということはできない。そもそもこうした問いについて何ごとかを語るのは話の種に事欠いたときで、今日はもう十分に話したような気がする。

しかし、時間というのは何だろう、それが流れるものであるという理解を許容したとして、時の流れは速いなあとか、いやいやゆっくりだとかいう人がいるけれど、自分としてはどちらでもない。驚くほど絶妙だと私は思うのである。本当に、まったく、これっぽちも早いとも遅いとも思わない。そのスピードについて何の感想も抱かないくらいに、微妙な速さで流れていると思う。これは私がそう感じないような何ひとつ起伏のないつまらない人生を生きているからなのかもしれない。とはいえ、やっぱり私が一秒すぎるのを感じたときには私の知覚する世界は同様に一秒が過ぎているのであり、一分の経過を確認したとき、やはり世界の方も一分前へ進んでいるというのは少しばかり不気味でもある。たまには一秒のうちに一分が過ぎ、一時間の経過を感じたと思ったら一日前へ戻っていたっていいようにも思うのだが。何の脈絡もなく話し始めてしまったうえに話を広げるネタもないのでそろそろこのあたりで終わりにしておくがそうはいっても時間というのはよくわからんが厳格なやつという印象があって私のようないい加減な人間とは反りが合わなそうだなあとふと思ったりもするのである。