白昼夢中遊行症

断想

昨晩は夜が明ける前に眠ることができた。朝、10時頃に起きて、今日の講義を受ける。昨晩は何も食べていなかったので、腹が減っており途中で食事に出た。松屋で麻婆豆腐丼を食べる。なぜか自宅の近くの松屋では麻婆豆腐丼の代わりにバターチキンカレーを売っていて、頼むことができなかったので少し遠いところまで行って食べる。好奇心が満たされた。

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腹ごなしに散歩をする。今日は書店まで行かず、というか書店を通り過ぎ、方向を変え、川沿いに北上する。北には私の通う大学があり、大学の図書館がある。今日は散歩ついでに図書館を覗いてみようという気になったのである。すでに借りている本があり、それらの本を一つも読み切っていないにもかかわらず、新たに本を四冊借りた。図書館で本を借りて読まずに返す人がこの世にどれくらいいるのかわからないが、私はそうした人の一人である。

家に帰ってシャワーで汗を流す。今日は暑くはなかったが、そこそこ歩いたので汗をかいていた。今日の歩数は17,931だった。腹ごなしのためでそんなに歩くつもりもなかったのだが、大学まで徒歩で行くとそこそこ距離があるようだった。いや、自宅からはせいぜい2キロメートルほどだが、今日は歩くことを(というか、それで運動することを)第一の目的にして、そのついでに大学に行ったということで、かなり遠回りしていた。歩きたいときにはこれを散歩コースとして選ぶのもありかもしれないと思った。

最近の日記の内容は、出来事を列挙するばかりになっている。最近は運動不足が気になっていて、歩くために歩くのではなく、運動量を増やすためというよこしまな目的のために歩いているという側面が大きくなっているように思う。私にとって望ましい散歩というのは運動のためではなく、ぼんやり歩くためのものであり、無心になるためのものであるので、最近はよい散歩はできていないように思う。私が何か考え事をするには、そうした散歩をすることで、頭の中をある程度すっきりさせないといけない。そのため日記のほうは最近は本当にただの記録になっている。日々の体験から一般的な教訓を導き出したり、ふと頭をよぎる形而上学的問いを自分なりに考えるための思考の軌跡を書き出したりするでもなく。しかし、無心で散歩をするというのも、そのやり方を忘れてしまったいまは、どうにもできないものである。