白昼夢中遊行症

人生、この悪しき習慣

この世に存在し始めて廿何年か、おれは成人して以来、自分の年齢に関心がなくなった。大学を休学して、まわりに同い年も居なくなったから、ますますわからなくなった。しかし、自分の年齢が分からなくて困ることなどそうそうない。

カミュの『異邦人』では、ムルソーは母の年齢を覚えていなかったということで、それについて裁判か何かのときに何やかんや言われていたが、おれはもちろん、両親の年齢も知らない。しかし、それが何だというのだ。

おれがおれ自身について知っていることは少ない。おれは、日本のどこかに生まれ、同じ土地で18年と4か月あまり過ごし、大学進学に合わせて他の土地に移った。

おれにとってはそのどちらの土地もなんだかよそよそしくて好きになれず、そもそもおれのいるべき場所はどこにもない。小学校も中学校も高校も大学も、おれはそこにいるとき、身体だけはそこにあって、心ここにあらずだった。いや、いつどんな場所にいたって心はそこになかった。そもそも心というものがわからなかった。

何にせよ、おれには帰るべき場所がなかった。家族に対してもどんな距離で接すればよいかわからない。

おれの姓は漢字二文字で、名前も漢字二文字で、読みは合わせて七文字で、音も七つだ。

しかし、名前といっても、これが自分のものであるという気もしない。ただ、これが自分を指しているらしいから、その名前を使っているだけだ。自分の名前に慣れたのも、ここ最近のことで、バイト先が人を呼ぶときに名前を使う決まりになっていて、それで自分のことを名前で呼ばれることが多くなって、ようやくこの名前がおれという存在を指示しているものであるという認識を得るに至ったのだ。

そのバイト先もクビか自主退職かわからない辞めかたをしたけれど。それ以来、また、自分の名前がなじまなくなってきたような気もしている。

おれは結局のところなにものなのか、という問いと共に生きた廿数年、ともかくも、おれは生物であるらしく、生物である以上は生きて、その果てに死ななくてはならない。そのことだけは何とか理解したのだが、死というものがまだよく分からない。

死とは何か、とかいうことについて長々と述べた本が近年ベストセラーになったが、そんなものを読む気にもならず、そもそも本なんて読むものではなく、本とは自分語りの契機であり、自分語りとは無駄なことであって、したがって本を読むというのは無駄なことであって、しかし、本を読まない人生もまったく同様に無駄なもので、本を読む読まないにかかわらずそもそも人生などというものの一切が無駄で、死は救済だという人も一定数いるらしいけれど、救済でもなんでもなく、そもそも死にそうした価値を付加することが間違っていて、死とは、そうであるなら、いったいどういうものであるのかといえば、すべての生物の運命であるとは言えるかもしれないが、おれとしては、おれの知っている死なるものとはすなわち不在で、たとえば仏壇の写真にしても、棺に納められた肢体にしても、そこには何もなく、霊魂などというものを、おれもかつては信じていて、暗闇をやけに怖がっていた頃もあったけれど、おれはそこにはなにものもいないということに気付いてからはそんなものもすっかり信じなくなって、死はただ、あるものの痕跡がゆっくりと薄れていくことで、いや違うか、死とはなんだ、少なくともなんの価値もなく、生の一部であり、というより、生は死へのプロセスであり、おれは死ぬまでの過程なのであり、生が死の一部分であるというなら、生にも、生なるものにも価値は帰属できないもので、生きる意味は分からないが、少なくとも生きる価値はなく、ある一つの生、すなわち死のプロセスとしてのおれというのにも価値はなく、しかし、それでも生きる理由というのをなんとか見出すことを求める不思議な生き物で、不思議なことに意志は死のプロセスを好きなときに完了させることができるのだけれど、早期終了にはどうにも心惹かれず、反出生主義は直観に反するというけれど、理由なく死を新たに始めるというのも直観に反してはいないかと思うことがあったりして、ああ、おれは何を考えているのだろう、とふいに我にかえると、まったく、おれは意味のない考え事をしているものだと反省リフレクトして、死について考えるときにおれが考えていることというのはけっきょくのところおれの価値観を反映リフレクトしていて、死にはなんの価値も帰属させられないと言いつつ、おれは死におれの望む価値を与えているのであって、要するにおれとはいったいなんなのだろうか、という問いには、ただ死あるのみで、この世に存在して以来、おれは死に続けているということだけは確かに諒解していて、おれという運命はいったいあとどれくらいで完了するのかというのはどうにも分からぬもので、すでに落とし所を見失ってしまったこの文章と人生とに、おれはどうけりをつけてよいかもわからなくなって、結局はおれの人生とおんなじように、この文章も自分で区切りをつけることもなく……おれは、この文章のように、おれは落とし所を失った生を続けていて、

人生、この悪しき習慣……、おれはどんな習慣も持たないようにしているつもりが、この習慣だけはどうにもやめられず、おれはせいぜいこうした無駄な足掻きをするくらいで、おれは眠気というものを忘れて、あるのは中断のみで、この不眠のせいで一日中なんだか気怠くて、エアコンの掃除は思ったよりあっけなく終って、どうにも文書を終わらせることができず、いつまでも続く夢は知的貧困を示していて、と誰かが言った覚えがあるが、それと似たように、たしかカフカが、小さな文章であっても結末をつけることがなにかと難しいということの所以について何かしら言っていたような記憶もあって、しかしそれが何を意味していたかは分からず、ただ思い出したから話題に出しただけで、そろそろこんな独り言もやめてしまいたくて、しかしどうにも身体が熱っぽくて眠れず、雨はいつの間にか病んでいて、心の雨などというものもすっかり降らなくなったから、おれの心はいまや渇ききっていて、渇いたからといってとくに困ったこともなく、心の種に水をやることもなく、そういや心ってなんだっけ、そもそも心がわからなかったとかなんとか上のほうで言っていたっけな、なんて思い出して、いつの間にかこんなひとりごとを延々とつづけてもう一、二時間か経とうとしていて、いまだに身体は熱っぽくて、心は枯れていて、文章にけりをつけることができないにしても、このひとりごとを見捨てる勇気くらいはどうにか持つことができそうな気もするけれど、……そうだ! 断念すること、それが人生において肝要だ。