白昼夢中遊行症

断想

今日は髪を切る日だったので髪を切りに行った。授業がある日よりも早い時間に起きて、コーヒーを飲み、シリアルバーを食べる。それから家を出る。自転車で10分と少しのところにある美容室へ行く。アルコールで手指の消毒をしてから建物に入る。入店するとまもなく、待ち構えていた店員にスタンプカードをよこせと言われるので差し出す。荷物をロッカーに入れて待っておくようにと指示される。いつものロッカー(上段奥から二番目)に荷物を入れて、椅子に座って待つ。手持ち無沙汰なので、テーブルに置いてあるUVカット云々と書かれた商材紹介用のチラシを眺めていた。1、2分して担当の人に呼ばれる。

「あれ、眼鏡してましたっけ」

「ついこの間変えたんですよ」と言いながら、そういえば、おれはついこの間眼鏡を変えたのだということを思い出す。

4年ほど使っていた眼鏡はアセテートのフレームが劣化して所々白くなっていた。本体とテンプルとをつなぐネジのネジ山はなめてしまっていて、すぐにばらけてしまうようになっていた。レンズも熱やら酸性雨やら乾拭きやらで傷だらけになっていた。さすがに替え時だと思って、新しく眼鏡を買ったのだが、そのときに、せっかくなのでということで、今まで使っていたものとすっかりイメージが変わるものを選んだ。太めの合成樹脂鼈甲柄のウェリントンから、細身のメタルフレームの丸眼鏡に変えた。一昔前のインテリみたいで、案外これも悪くないな、と思った。

「前いらしたときとちょっとイメージが変わっていたので。いい感じですね」とか言いながら、おれを座らせる。

「今日はどうします?」

「とりあえず前回くらいの長さにしてもらって、そこから様子を見ます」

「眉毛は?」

「やっちゃってください」

おれは毎回、500円の眉毛オプションをつけてもらう。朝一でそんなに汗をかいていないからか、今回はシャンプーなしでそのまま切り始める。この担当の人とはもう長い付き合いになるので、彼はおれが当たり障りのない世間話を二言三言話すぐらいの人間だということを知っている。なので、当たり障りのない世間話を二言三言交えながら、美容師はおれの髪を切り、おれはその間、おとなしく髪を切られる。

「授業はまだリモートなんですか?」

「まだリモートですね。夏休み明けもどうなるかわからないです」

「最近また増えてきましたからね。歓楽街の方でもクラスターが発生しましたし、もう、ワクチンが出るまではどうにもなんないですよね」

……とかなんとか。ニュースを見ないおれにとっては、こうした世間話が主要な情報源だ。おれは何にも知らないので、知っているふうな相づちを入れながら、なるほど、GoToなんとかキャンペーンなるものがあるのか、とか、少なくとも今年いっぱいはこんな調子なのか、とかいった情報を仕入れていた。

一通り切り終えて、一度、どうですかと問われる。おれは、もうちょっと上までサイドを刈りあげたうえで、全体的に短くしてくれと言う。もうちょっと上までサイドを刈りあげたうえで、全体的に短くしてもらう。どうですかと問われる。今度は、ちょうどいいですと答える。それじゃあ、眉毛もやっちゃいますね。おれは眉毛をやられる。おれは眉毛をやられているときが、一番緊張する。ここでくしゃみでもしたら、あるいはしゃっくりでもしたら、おれは眉なし人間になってしまう。さいわい、おれにはこの先2か月ほど人に会う予定がないので、眉なし人間になっても、なんとか生きていくことができるだろう。しかし、今日も何ごともなく、無事に眉毛を剃られ終えることができた。

暖かい方のタオルで顔をふき、シャンプーをしてもらう。マスクのゴムが邪魔そうだな、とか、このシャンプーいつもと違うな、とか考えていた。

「かゆいところはないですか?」

「ないです」

もしかゆいところがあったとしても、おれにはそのかゆいところを適切に言い表す自信はない。それに、おれはかゆいのを我慢することに快感を得るタイプの人間だった。

シャンプーが終わると、ドライヤーと整髪料で髪を整えてもらいながら、天気の話をしていた。やがてすべての行程を終えて、最後に形式上の「これでどうですか?」「オッケーです」というやりとりを交わす。ロッカーの荷物を回収して、会計に向かう。ちょうど6,000円の釣りを受けとったあと、次の予約を入れる。ここで髪を切るのも、あと2回か3回くらいなのか。おれは就活を諦めているので、大学を出たあとの進路はまったく決まっていない。しかし、少なくとも、大学を出たらこの街を離れることにはなるだろう。そうすれば、もう二度とこの街に来ることもなくなるだろう。おれはここに思い出も友だちも帰る場所もつくらなかった。おれをこの街につなぎとめるものは何ひとつなかった。おれの生まれ育った街にも、とくにそうした思い出は何ひとつなないのだが。おれはこの先、どんな街に行き着いたとしても、たぶんこれらの場所と同じように、そこに自分の居場所を見つける前にそこを去ることになるだろう。おれはどんな場所に住み着くにしても、どんな集団に帰属するにしても、そこに対してよそ者であり続けるのだろう。そう考えると、自分というものがひどく心もとないものであるように思われた。

おれはまっすぐ家に帰った。