白昼夢中遊行症

断想

そろそろ夏も終わりかけってとこか。大学の夏休みは9月末まであるが、8月も終盤にきて、ぼちぼち夏っぽさがなくなってきた。夏っぽさがなくなってきたといっても、エアコンをつけなければ夜中でも室温が30度を上回っているので、暑くなくなった、というわけではない。じゃあ、なくなった夏っぽさ、てのはいったい何なのか。なんなんだろうな。空気が違うってくらいだろうか。どう違うのかは説明できないけれど、季節によって空気の匂いが違う。しかし秋の空気、というのでもない。ちょうど今が変わりかけというところなのだろうか、まあなんにせよ、夏の空気ではなくなった。いつの間にか。

夏は、というか、暑い時期は早起きがしやすい。起きる時間よりちょっと前にエアコンを切るタイマーを設定しておけば、暑くてすんなり目が覚める。しかし、それでも眠らないことには早起きはできない。だから近頃は25時前には眠るようにしていた。しかし昨日はは30時に眠り、その6時間後に起きた。

最近は本も読めないし、文章も書けない。そんなこんなで今年の夏が終わりにさしかかり、ふとまわりを見まわせば、この夏に読もうと勢い込んで買ったり借りたりした本がそこここに読まずに置いてある。

読み書きができなかったので、その間何をしていたかって、そういうときはだいたい、動画を見ている。何度も見たものを選りすぐって見るのだ。少しでも頭を働かせるのがしんどい。しかし、おれの頭は何もなければ勝手に考え事を始めて、勝手に疲れ切ってしまう。そういうときには、あまり脳に新鮮な刺激が加わらないような、何度も見た動画をぼんやりと見るのだ。そうすればいい具合に頭が働かない。

ほんとうは、読み書きができないのには、他に何か理由があるのだと思う。頭が動かないのではなく、どちらかというと、頭を働かせたくないのだ。しかし、それがどうしてかはわからない。このままではあまりよくないだろうと思う。だけど、頭を働かせたくない理由をさがすために頭を働かせるのがおっくうだ。

日記を書いたのは2週間ぶりくらいだ。その期間、ほんとうに何にも考えられなかった。考えたくなかった。だから、一切文章を書けなかったし、読むことはだんだんできなくなっていった。

自分を取り戻すために、いま、こうして短い文章の断片を書いている。今は長い文章は書けない。いや、いつでもそうだったような気がする。とはいえ、今はとくにそれができない。だけど、ちょっとずつでも何か書いてみることで、だんだんと調子を取り戻せるんじゃないかと思って、書いている。

書けなくなった原因のひとつは、お盆に実家に帰ったことだと思う。それで物理的に書く手段を失ったというわけではないけれど、なんだか実家に帰ることで、ごっそりと自立的な思考を奪われたような気がした。そのことを何度も書こうとしたけど、書けなかった。

そうだ、そういえば、何度か書こうと思ったことはあったんだったか。でも、書くことが自分の傷をえぐることであるような気がして書けなかったのだったか。

おれは自らの傷をえぐって書かれた文章をこそ読みたいと思うし、自分が読みたい文章を目指して書いているこの日記には、そうした文章こそ書くべきだったのだろう。しかし、どうしてもそれができなかった。それに、語るための言葉も不足していたと思う。

何年か前に、かなり幼いころの姉の日記を読む機会があった。詳しいことは覚えていないし、それが現実だったかどうかもわからない。おれは自分の記憶が当てにならない。夢も現実も同じようなはっきりさで、というか、ぼんやりさで覚えているから、それらの区別がつかないのだ。まあともかく、その記憶が現実のものだったとすれば、姉が一時期引きこもりになっていた理由もわかる。そして今もしばしば発作を起こすことも。

その日記は、家のものを整理しているときに母がみつけてきたもので、パラパラとみて面白いと言っておれに渡してきたものだったと思う。たしかに、全体的には微笑ましいものだった。

おれは実家からずっと距離を置くべきだったのだと思う。就活をしなかったのは失敗だったと思う。おれは、大学を卒業したら、そのまま行き場を失って実家に戻ることになるが、おれは実家に戻ることになる選択をするべきではなかった。

おれは長いこと、自分がこの世に存在してしまったという事実に対して折り合いをつけられずにいた。ずっと、「存在以前」に想いを馳せていた。今では、存在してしまったことをどうにか受け入れつつあるように思う。しかし、今でも親を目の前にすると、自分が存在してしまったことの後悔に心を押しつぶされて、うまく息ができなくなる。

2020年の夏の記憶の断片。ろくでもない夏の断片。「ろくでもない夏」というと、おれの生きた夏はすべてこれに当てはまってしまう。おれにとって夏とはろくでもないものばかりだ。いや、夏に限定する必要もない。いつだってろくでもない人生だった。これからもそうだろう。

始まりと終わりを決めて、それを切り出すとなんだか意味ありげに見えるものだ。しかし、「この夏」に何の意味があるというのか。「今年」とは? 「おれの人生」とは? しかし、そのいずれにも普遍的な意味はない。始まりと終わりを決めるのは人間の都合によるものだ。そこには何もない。

「この夏」についての断片的な記録。しかし、これらの記録は「あの夏」や「その夏」でもよかったのだ。しかし、これらの記録が「この夏」のものであるということを記録しておくことに何の意味があるのか。何の意味があるのかはよくわからないが、とりあえず、「この夏」の記録として断片的にでも記述しておく。これに何の意味があるのか。

今週のお題「暑すぎる」