白昼夢中遊行症

眠れるときには眠りたい

授業の予習をしていると、気づけば日付をまたいで1時間経っていた。今日は自分の卒論のための勉強にまったく着手できなかった。まあ、こんな日もあるか。まだシャワー浴びてないよな、と思い、風呂場で頭を洗っていると、数時間前に頭を洗っている自分の姿が重なってきた。まさか……? そのまさかである。おれは今日、すでにシャワーを浴びていたのに、そのことをすっかり忘れていた。そういう物忘れの激しい人の話を聞いたことはあるが、まさか自分が……と思ったが、よくよく思い返してみれば、以前にも眼鏡をかけながら1、2時間ほど眼鏡を探し回ったことがあったので、まあ平常運転か。

本当は予習は4時間くらいで切り上げて、オンデマンドの授業を受けて……という心づもりだったのに、当てがはずれた。授業は明日に持ち越して、明日はその授業と、課題ひとつと、あとロシア語の授業も宿題を課されていたっけな。もうちょっと早起きしたいところだが、早起きするには早く寝ないといけない。今日はもう手遅れだ。

結局、今日はトータルで10時間ほど費やして、ひとつの授業の予習をするに終わった。何にそんなに時間がかかるのか、といえば、ひとつにはおれが無能だからだが、その上、予習として読まねばならないテクストがあまりにも難しすぎすからだ。読んだのは、19世紀末から20世紀にかけて活動していた、ドイツの哲学者の文章だ。この人の文章は、というか、古典的な哲学者、特にドイツ人の文章というのは、凡人が半端な覚悟で挑むと気が触れるくらいに難しい。おれは凡人だが、覚悟はしていたのでぎりぎり正気を保っていた。いや、どこかおかしくなっているかもしれんが。とにかく、1パラグラフが長いし、一文が長いし、ひとつの名詞句で一行まるまる使う、なんてところもある。日本語訳である、ということが数少ない救いだ。しかし分からん。分からんままに1日が終わった。だが、この感覚は嫌いではない。

大学を出て、それでもなお、おれはこうしたことに取り組めるだろうか。大学の講義で扱われるような難しいテクストを読む、というだけでなく、おれの卒論のテーマに関しても、おれの関心を満たすためには、卒論を書き上げるだけでは足らず、大学を出たあとも学びつづけなければならないだろう。しかし、おれにそれができるだろうか? 日々何かを学びつづける、という生き方をおれはできるだろうか? おれはすでに何かを学ぼうという気を失ったように見えるおれの父親を心のどこかで軽蔑しているが、じゃあおれはどうなんだ? おれはおれに軽蔑されない生き方ができるだろうか? 分からん。おれには分からん。そもそも何も学ぼうとしていなかったおれが、最近ようやく自分の関心を満たすことの楽しみが分かるようになってきたおれが、しかしつねに楽な道を選ぼうとするおれが、一年のうち半分くらいしか正気でいられないおれが……。

まあ、そんなこと考えたって何にもならない。未来の自分の自制心について考えこむよりも、十分な睡眠を取って明日に備えることの方がはるかに重要だ。