白昼夢中遊行症

断想

人間には人間であるがゆえになしうる種々のよき行いがある。そうした、よき行いをするための能力は、神によって人間に与えられた恩寵であるらしい。アウグスティヌスがそんな感じのことを言っていた(おれの幻影としての書物のなかで)。しかし、その力によって人間は悪しき行いをなすこともできる。当然、神は人間に悪しき行いをさせるためにその力を与えたのではない。なので、悪しき行いをなした人間は、せっかく与えたものを不正に用いた廉で神に罰せられることになる。つまり、人間はよき行いを与えられると同時に、それをなすことを義務付けられている、ともいえる。おれにはそのことが耐えがたい重荷であるように思えてならない。

神は、正しくあるためにはただそれを欲すればよい、などと、いとも簡単なことであるかのように言うが、実際、そんな簡単なことではない。少なくとも、おれにとっては。

正しい人間はただちに幸福な人間であるから、人が幸福になるのはごく簡単なことである。つまり、ただ正しくあることを欲すればよい。幸福を希う人間がすべて幸福でないのは、幸福を希うものが皆、正しくあることを同じように望んでいるとはかぎらないからだという。

おれはといえば、幸福さえも望まない。

おれは何にもなりたくなかった。それが叶わないのなら、鳥にでもなりたかった。鴨やら白鷺やらがいいな。すくなくとも人間ではいたくなかった。人間でいるべきではなかった。おれにとっても、世界にとっても、おれは人間として生まれるべきではなかった。下手に神に期待されて、ハイリスクハイリターンな人間としての生を享けたが、丁重に断っておくべきだった。正しくあるためには、ただそれを欲すればよい、だなんて、いとも簡単そうに……。おれはそんな甘言にまんまと勾引かされてしまったというわけだ。思えば、おれはこうした類いの言葉に何度も騙されて痛い目見てきた。キツネに煽てられたカラスかおれは。いい気にさせられ乗せられて、あ、と思ったときにはとっくに手遅れなんだ。