年が明けて初めに見る夢を初夢というらしい。なぜか、Wikipediaでは、日付で定義しようとしているような感じの説明がされていた1が、「初」というものを具体的な日付で定義していいものなのか。ブリタニカとか、精選版日本国語大辞典とかでは、「新年になって最初に見る夢」というくらいのゆるい定義だ。おれはブリタニカの説明を信じることにする。
とするなら、おれが今朝見た夢は、初夢ということになる。残念ながら、フジもタカもナスビもなかった。代わりに、年末年始を実家で過ごす夢を見た。おれは夢に見るほど、実家が恋しいのだろうか?
ところが、おれが見た夢では、細かいことはもう覚えてないけれど、そこはピリピリした空気に包まれていた。おれはそこから逃げ出したくてたまらなくて、家を出て行こうとするあたりで目を覚ました。
そして、おれ自身、例年はこの時期には実家に帰っているところ、今回は「自粛」やら卒業論文の執筆で忙しいやらを口実にして実家に帰らなかったのだが、内心、帰らない格好の言い訳ができたと喜んでいたことは否定しがたい。おれは、あまり実家に帰りたくなかった。おれは、そこにいるとおれがおれでなくなってしまう気がしてならないのだ。
おれの家庭は大きな問題を抱えていたわけではなく、表面上はうまくいっていた。けれどいくつかの小さな問題を抱えていて、それらが今に至るまで、子供たちに呪いのようなものを残している。おれが人間のすべてを呪い、命の鎖を紡ぐ営みを軽蔑し、神を恨み、宗教を踏み躙るのも、そのためだ。すべてがそのせいだとは言わないが、その原因の一端を担っているはずだ。おれ自身がそう感じているので、それはひとつの有意味な解釈でありえよう。これがおれの自身の辛さの責任転嫁への傾きであると理解しつつも、やはりそう思わないではいられない。
……とまあ、ここまで書いたはいいけれど、水道水の冷たさで油が固まってしまってなかなかきれいにならない調理器具を洗っているうちに興を削がれてしまった。まったく始まってもいないのだが、ここで話は終わる。新年早々、めでたいこの時期にする話でもないだろう。おれには新年なんて、ちっともめでたく思われないのだけれど。だから、おれは初夢なんてものにも何ら特別な意味は与えないのだけれど。
何にせよ、この話はまたいずれ、別の機会で話すことがあるかもしれない。それは明日かもしれないし、来年かもしれない。あるいは10年後かもしれないし、もう話さないかもしれない。今日の話は、シャワーを浴びながら考えていたのだが、シャワーを浴びながら考えたことは、頭を乾かしたときに忘れてしまう。シャワーを浴びながら日記に何を書くか考えていることはよくあるが、だいたいいつもそうなる。しかし、シャワーを浴びているときがいちばん考え事が捗るのだ。