白昼夢中遊行症

断想

まともに日記を書くのは1か月かそこらぶりのことになる。といっても、こうしてしばらく期間が空くのは、いまに始まったことではない。おれが日記を書かなくなる要因はいろいろあるが、ひとつは、日記を書く際に「今日のこの出来事は記録するに値するのだろうか」と考えこんでしまうからだ。そうして、「いや、記録するに値しない些末な出来事だな」と結論づけてしまうからだ。

しかし記録するに値する出来事かどうか、どうして前もって分かるというのか。たしかに、日々起こる出来事のほとんどは、それ自体としては、些末なことだ。たとえばおれが今日、雪の降る中、それにそぐわない薄着で、しかも足には素足にサンダルを履いて出歩いていたこと、近所で世間話をしていたおばちゃんがそれを見て「あの子、この寒いのにあんな薄着で、若いなあ」とか言っていたことを、記録してどうなるってんだ? どうにもならない。どうにもならないが、そのどうにもならないことも、書き残しておくことで、ふと読み返してみたときに思いがけないひらめきをもたらしてくれるものなのだ、たぶん。あるいは、生きる上での何らかの支えになることもある、かもしれない。なんにせよ、それが記録に値するかどうか、というよりも、日記に書かれた出来事の価値というのは、読み返す際に、その記述を読み返すに値したかどうかによって決まるものなのではないか、と思う。あるいは、そのほかのさまざまな状況に応じて変わるものなのではないか、と。となると、日記に書く出来事が、書かなければならないものなのか、あるいはそうでないのか、どうして事前に知ることができようか。

したがって、日記というものは、ひとまず書かねばならないのだ。とにかく、遮二無二書くしかないのだ。書いておいて、そして後のことは、いつかの誰かがどうにかしてくれる。なんにせよ、いまは書くしかないのだ。

もっとも、それは日記を書く人間であるならば、という話ではあるが。

さて、おれは日記を書いたり書かなかったりする人間だが、さしあたりいまのおれは日記を書く人間であるということにしよう。今日、なにがあったっけ? そうそう、おれはおよそ3週間後に迫った引っ越しに向けて、身の廻りの片付けをしていた。おれはいまだに自分が大学を卒業できるのかどうか、分からない。しかし、何にしたって家を引き払う話は進めてしまっているので、少なくとも今のこの家は去らねばならない。そういうわけで、いろいろと荷物をまとめたりしていたのだ。先日、Amazonで100サイズの段ボールを10箱購入して、とりあえず本を詰めこんだ。3箱がいっぱいになって、あともうちょっとあふれている。やたらと靴がある。とりあえず、詰めこむ。冬物の服も詰めこむ。10箱じゃあ、微妙に足りないような気がしてきた。まあ、残す荷物については、いったん置いておこう。そういうことにした。

そういうわけで、今日は捨てるものをいろいろと見繕っていた。というか、だいたいの目星はついていた。おれは授業で配られたレジュメをなんともご丁寧に、すべて残しておくタイプの人間だった。といっても、読み返すために残していたんじゃない。捨てるという判断を下すのにも疲れ切っていたから、とりあえず残していたのにすぎない。というわけで、捨てる。間違って捨ててはいけないものまで捨ててしまわないように、いちおう、だいたいすべての紙に目を通す。自分の名前が書いてあるくらいなら、別にいいや、と思う。しかし、中には大学のメールアカウントへのログインIDやらパスワードやらが書いてある紙が紛れていたり、何やら重要そうな契約書かなにかが紛れていたりする。そうしたものは、さすがにそのまま捨てるわけにはいかないので、取り除く。そして、それ以外は捨てる。パラパラとレジュメを見て、ああ、こんな授業もあったっけな、と思う。思いつつ、捨てる。大学には5年間いたわけだから、そのぶんのレジュメを、今日の一日、というか半日のうちに一通り読み返したことになる。5年、というのはまあ、短くはないよな。でも、おれがここで過ごした5年間はどうだったか。その短くない期間に見合った時間を過ごしていただろうか。あるいは、それに見合ったなにかを得ることができたのだろうか。

……いや、分かんねぇよ。それに、いまここでその価値をすっかり定めてしまって良いものかどうかも、分からない。正直なところ、おれは、おれが過ごしたこの5年を、まったく無価値だったとはっきり言ってしまうために、ここまで生きていたように思っていた。しかし、この記録の最初のところにも書いたように、いまもまだ、かろうじて持続している大学生としてのこの時間の価値を、いまここで定めてしまうことなんてできるのだろうか。いや、おれにできるのは、ただ書くことだけだ。記録しておくだけだ。そうしていつかの誰かに託すことだ。そのくらいだ。と、これを書いているうちに、そう思えてきた。本当は、この5年間の無価値を徹底的にこき下ろすために、この記録を始めたつもりだったのだけれど。

ツルゲーネフの『父と子』という長編小説を、2020年の末に購入し読み始め、年明けからしばらくはまったく読まず、2月になってから再び読み始め、読み終えた。そのときふと思ったことを、いまになって思い出す。つまり、おれはどちらかというとバザーロフというよりもアルカージイだな、と。この小説、なにが素晴らしいって、どの人物も生き生きしていることで、それらすべてに独自の魅力がある。しかし、その中で、おれが個人的になにか親しみを覚えた人物はといえば、バザーロフではなく、アルカージイの方であった。なんというか、バザーロフのような徹底したニヒリストというのは、それはそれで、なんだか意固地に見えるというか、あまりにストイックすぎるというか、そこまですべての価値を否定することは、おれにはできないな、と思ったのだ。バザーロフという人物自体は魅力的で、興味深くもある。実際おれがアルカージイに親しみを覚えたのも、ひとつには、彼がバザーロフを尊敬する気持ちがわかるような気がしたからだ、というのがある。しかし、やっぱりおれにはバザーロフに共鳴はできないな、とも思うのだ1。ところで、ずっと気になっているのだが、地の文の中で、バザーロフは姓で呼ばれているのに対し、アルカージイは名で呼ばれているのは何でなんだろ。まあ、何でもいいか。

父と子 (新潮文庫)

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1年前。

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無意味と吐き捨てたときのおれ。

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お題「#この1年の変化


  1. とはいえ……と思ったけど、あんまり書くとネタバレになりかねない気がしたのでもう語らないでおく。古典に関しては、ネタバレすることはそれほど深刻な害をもたらさないものかもしれないが、それでもむやみに語らないに越したことはないだろう。