白昼夢中遊行症

断想

部屋からすっかり物がなくなってしまった。すっかり、というのは誇張だが、人の住んでいる部屋、というのに十分な、生活感を演出する家具は、すっかり取り払われてしまった。机や椅子、ベッドや電子レンジ、テレビ、パソコン、本棚、等々、そういったものはみんな、実家に送るか、捨てるかしてしまった。

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今まで住んでいたのとまったく同じ六畳間が、どうしようもなく広く感じられる。いや、実際広くなったのだ。それにしたって、ここまで広くなるなんて、思いもしなかった。けれど、おれが初めてこの部屋に足を踏み入れたときも、このような空間だったんだっけ。そのとき記念にとった写真は(いや、記念にではなく、退居時に必要になるということだったから、撮っていたんだったっけ)、いまは見ることができない。失われてしまったというわけではなく、そのデータが入っているSDカードが、いま手元にないからだ。

まあ、それはいいとして、やっぱり広いな。物が少なくて落ち着く感じと、物が少なくて落ち着かない感じとが同居していて、なんだか妙な気分だ。おれは家にいるとき、普通は椅子に坐って、机に向かっている。机を解体してからは、ベッドの上に坐って、積み上げたダンボールを机代わりにしていた。つまり、おれは家で床に坐り込むということがなかった。おれはいま、床に胡坐をかいて坐り、横向けに置いたキャリーケースを机にして、ノートパソコンでこの文章を打ち込んでいる。どうにも不自然だ。不自然だけど、これがどうしてか、しっくり来ているようにも思われる。変な気分だ。

そういえば、ここ最近、ほとんど眠っていない。引っ越しの準備で忙しいとか、床が冷たくて眠れない、というのもあるが、なんだか、この街にいられる時間もあとわずかしかない、と思うと、眠ってなんていられない、という思いもあるのかもしれない。でも、最後にどこか記念に出かけようか、という気分にもなれない。これはおれの人付き合いの仕方にも似ているかもしれない。おれは別れに際して、何か特別なことをするのを嫌う。おれは二度と会わないであろう相手に対しても、それがどんなに親しい間柄であっても、「じゃあ、またな」くらいの言葉で別れを告げることにしている。同じように、おれはこの街を去るに際しても、何かを見納めるためにどこかに出かける、なんてことはしない。だって、きりがないじゃないか。見ておきたいもの、記憶にとどめておきたいこと、そんなものを一から十まで並べ挙げて、一つ一つ片づけていこうとしたなら、人間の一生じゃあ足りないだろう。人生の途中で、人間の一生分も立ち止まってはいられない。かといって、どれか一つを選ぶこともできない。この人生で直面するあらゆる出来事は、どれもひとしく、記憶にとどめておくに値することだからだ。それがどんなに辛い苦しみであってもだ。

おれは記憶に優劣をつけない。どれもひとしく、うすぼんやりと覚えておきたい。あえて、それらのうちのいずれかを鮮明な形にして記憶にとどめておくようなことをしない。そうではなくて、それによって陰に埋もれてしまうものを大事にしたい。そうやって生きてきたし、これからもそうやって生きていくにちがいない。だから、おれは明日、この街を去るとしても、ただただそれまでの時間を引き延ばしてみるくらいのことはしても、その時間を何か美しいものにしようとはしない。