白昼夢中遊行症

残念ながら、生きています。

残念ながら、生きています。まだ、生きてるんですよ、なんでかな。いや、とくに理由がないから生きているのかな。まあ、生きているんですよ、まだ。

でも、ここの更新にはすっかり手が回らなくなって数ヶ月が過ぎてしまったし、それ以前にもうすでに疎らになっていたから、ここでは死んでしまったも同然なのかもしれない。

死んでしまったのなら、今ここで声を出している人物は何なんだろうか。ゾンビ的なものなのかね。生きているんだか、死んでいるんだか。

死んでいたっていいさ、それでも声を出せるのなら。誰かに届かなくとも、声を出せること、それこそが重要だ。かつてこの場所は、私にとってそういう場所だったはずだし、ずっとそのための場所だったはずだ。忘れていたかもしれないけど、そうだった。だから、これからも、少なくとも当面のあいだはそうであるはずだ。そうであるべきだ。

正直なところ、ここはもう捨ててしまおうかとも思っていた。もう日記なんて書くこともないんじゃないの、また書くにしても、ここと連続したものである必要はないんじゃないの、と。

でも、「そうじゃないだろう」とは、つねづね言っていたはずだ。ほかならぬ私が。それはしてはいけない。それはここに何かを書くうえで、なによりも禁じていたはずではないか。自分の人生を何もかも、とまではいかずとも、「自分とはなにか」との問いに答える手がかりになるように、書き残すこと。私が連続した人格を備えた私であることを保証するひとつの証として、書き残すこと。まだ、その気持ちは生きている。残念ながら、生きているのです。

……とは言ったものの、だからといってここにもっとまめに書きにくる、ということはないと思う。これはあれだ、いつものだ。そもそもこんなことを書くつもりじゃなかったんだけど、まあいいか。

よくない? でも、とくに話題もないのよな。しいて言うなら、先月からパート・タイムで働くようになったということくらいか。週五日、一日八時間なので、労働としては緩いものだと思う。それでもひいひい言っているので、たぶん生きるのには向いていないんだろうな、と思う。いや、いまさらか。そんなこと、前から分かっていたことじゃないか。だから問題ない。向いていなくとも、生きるのだ。それしかないのだから。

——「生きるのだ」とか言うけれど、おまえ両親の家に居候してる身じゃないか。

そうなんですよね。でも、ここで言ってる「生きる」というのは「働く」をいくぶん誇張して言っているだけなので、これでいいんです。それに私としては「生きること」と「働くこと」は同じじゃないにしても、とても深く繋がっているものだと思うのです。だから、「生きるのだ、それしかないのだ」というとき、それは「働くしかないのだ」と言い換えてもあながち間違いではないと思うのです。だからといって、労働を賛美するわけでもない。人生を賛美しないのと同じように。

とまあ、そんなとこですかね。話題が弱い? 内容が薄い? 尻切れ蜻蛉? 平常運転だな、オーライ。