白昼夢中遊行症

この文章はどこからが真実で、どこまでが嘘なのだろうか

昨晩、クラウドのいろいろなところに散らばっていたメモを整理していた。その際、少しだけ過去に書いた自分の文章を読んでいたのだが、なんというか、よくもまあこんなにいろいろなことを書けたものだと自分のことながら感心した。それと同時に、全然書けなくなった自分が少し寂しいような気がした。

書かないのではない。書けないのである。時間がないから書けないのでもない。時間を取っても書けないのである。おれは書けなくなったのだ。書きたいことがなくなった、というわけでもないと思う。今でも、やりきれない思いとか、生きづらさとか、そういったものと共に生きている、という実感はある。人間や神に物申したいことは山ほどある。しかしそれを言葉にできない。自分の考えや思いを託す言葉が見当たらない。

たぶん、おれは考えすぎているのだ。言葉について考えすぎているのだ。言葉だけではない、自分の言いたいことがなんなのか、ということについても、考えてばかりいる。しかしながら、言葉は考えて出てくるものではない。言葉は、椅子に腰掛けてうんうん唸って、それで発するものではない。言葉は、沈思黙考から生まれるものではない。言葉は、一種の身体運動だ。考えることは言葉を聞く相手にわかりやすいようにしたり、角を丸めて無難なものにしたりはするが、言葉自体を生み出すことはない。言葉は、それを発することによって生まれるものである。まずは言葉を発するべきだ。それから、その発せられた言葉について考え、それを磨き直す。そうした手順を、本当は取るべきだったのではないか。なんにしたって、言葉を発しない時期が長かった。体でわかっていたことも、すっかり抜け落ちてしまっていたようだ。

今のこの文章は、特になにも考えずに書いたものだ。書きながら、そういえば、あれらの文章も、こんな感じに書いていたんだったっけ、と思い出してきた。そう、こんな感じだった。一息に書かれて、そのままにされた文章も、後から推敲して順序をぐちゃぐちゃに入れ替え、それでしっくり来るようになった文章もある。いろいろ手を加えたあと、最終的に元のままがよかったと思いながら、それがどのにも残っておらず、失われた文章もある。そういうものだ。少なくとも、おれの書く文章については、そういうものだ。そんなんでよかったのだ。

おれは何かテーマを考えて書く、というのが苦手だ。これについて書きたいな、と思いながらも、いざ書こうとしてみると、まったく筆が走らない、なんてことばかりだ。たまに何かテーマがあって書かれたような文章も、それがちゃんと文章の体を成していたとすれば、最初からそのようなことを書こうとしていたわけではない、ということが大半だ。書いているうちに、こういうことが書きたかったのだ、というのが明らかになって、それに沿うように後から付け足したり減らしたり、並び替えたりしたものが、「何かについて書かれた文章」になる。他の人がどのように書いているのか、知らないけれど、自分についていえば、そんなふうにやっている。

しかし、あらかじめ何か書きたいものがあって、それに沿って書くことができる、という人を羨ましく思う。というのも、そうした書き方の場合、何かを書きたいという気持ちと、書かれる対象とが同時に存在しているからである。おれの場合、書きたい何かがあったとしても、何かを書こうという気になっているとは限らないし、何かを書きたいという気分の時に、書くべきものがなかったりする。そうなると、前者の場合はいろいろな思考が行き場を失ったまま頭の中をぐるぐるして、あらゆることが手につかなくなるし、後者の場合、なんだか 痒いところがあるのにそれをうまく掻くことができないような、落ち着かない感覚におちいる。どちらも、気分のいいものではない。

今日はたまたま、過去に書いた自分の文章を読んだという、話のきっかけがあったので話しだすことができた。そして、話しているうちに、話すことが見つかった。しかし、そう上手くいくことは少ない。例えば、最初に過去に書いた自分の文章について書こう、と思っていたなら、なにも書くことができなかっただろう。話のネタをそのまま広げると、上手くいかない。そこから初めはするものの、それはすぐに脇に置いていかなければならなかった。おれに取って話の種は育てるものではないようだ。育てるのではなく、それをそのまま食べてしまってその栄養を使って話す。そんな感じか。

おれはいま、ずっと出鱈目を話している。ここで話されている内容がおれを映し出している、というわけではない。この出鱈目を口から出るに任せているのがおれだ。話の種を育てず、食べてしまうのがおれではない。決まったテーマについて書けず、そうしたことができる人を羨んでいるのも、おれではない。言葉を思考ではなく行動だと考えているのも、おれではない。ただ、そのように書いているのがおれだ。いや、それもおれではない。おれは真実ではない。おれは何なのだ? いったい、おれはどこに存在しているのだ?

おれは正直でいたい。おれは誠実でいたい。おれは自分で書いたことに責任を持ちたい。おれはおれの嘘を暴きたい。という嘘を暴くのはおれでなければならない。という嘘を暴くのはおれでなければならない。という嘘を暴くのはおれでなければならない。……