- 横断歩道で信号待ちをしているとき、向かいから信号無視をして渡ってくる歩行者がいれば、おれは必ずその人をじっと見つめる。
- 別にその視線に非難の意味を込めているわけではない。
- ただ、「おれは見ているぞ」と、そう思いながら、じっと見つめる。
- 「おれは見ているぞ」というメッセージを発するため、というわけでもない。
- ただただ、おれは見ている。そう思いながら見つめる。
- こうしていると、なんだか神の視線を感じることができる。
- 神はすべてを見ている。
- おれが見ているすべてのものを、神も見ている。
- 反対に、誰かがおれを見るとき、そこにも神の視線がある。
- おれの視線に気づいて、反射的に信号を無視して渡るのをやめた、あの人がおれにくれた一瞥は、神がおれにくれた一瞥でもある。
- そう考えると、なんだか後ろめたいことができなくなってくる、ような気がする。
- そうでもないような気もする。
- それと同時に、なんだか安心するような気もする。
- 神は見ているのだ。見ているといっても、その目線は、何かを勘繰るでもなく、何かを批判するでもない。
- 神の視線からは、何もかもが丸裸だ。
- 後ろめたいことがあったって、それを隠し立てしよう、なんてことは無意味だ。
- 隠し事ができないのならば、すべてを曝け出すほかない。
- すべてを曝け出すことができる……そんなことが出来る相手は神だけだ。
- 神の前では、何かを取り繕う必要は何もない。
- それはなんだか、心休まることのような気がする。
- でもやっぱり、なんだか気恥ずかしいような気もする。
- そんなことを、歩きながら考えた。