白昼夢中遊行症

断想

いまのわたしの生活は、書くことをほとんど禁じられているようなものだ。

書くことによって考える人間にとって、書くことを禁じられるということは、考えることを禁じられているようなものだ。

人間というものは、考えることによって生きている、とみなすならば、考えることを禁じられるということは、生きることを禁じられるようなものだ。

なるほど、わたしは、いま、自分の運命を生きているような気がしない。わたしは眠り、数時間ののち目覚めるが、ここ数ヶ月、朝というものを知らない。ただ、なにも見ないで、手探りで牛乳をマグカップに2杯、飲んで、それからいそいそと出て行く。仕事がある日も、仕事がない日も。

日中屋内にいられるのは、仕事のない土日祝日。土曜日と祝日は、たいてい、仕事があるので、外出しないでいいのは仕事のない日曜日だけ。

仕事をするのは、悪くない。意識的に目をつぶっているのは、なかなか大変なことだ。

仕事をしているから、ものを考える時間がない、というのは違う。むしろ、仕事をしているときが、いまの生活で唯一、頭を働かせることのできる時間だ。しかし、仕事なので、その思考はすべて仕事に関することに注ぎ込んでいる。

問題は、たとえば、今日のような、仕事のない日。(今日は、会社から与えられた夏季休暇を消化するために休みをとった。)そんな日は、自分自身と対決するのにうってつけの日、のように思えるのだが、何かにそれを引き止められる。何かが、わたしを呪いのように拘束して、動けなくするのだ。その結果、ずるずると現状を黙認せざるを得なくなる。そんなこんなで、もう何ヶ月経つのだろうか。

今日もわたしはなにも書けなかった。

今日もわたしはなにも考えられなかった。

今日もわたしは自分の生命を抛棄したのだ。