白昼夢中遊行症

断想

今日も辛うじて、生きながらえた。明日は、平日だが仕事に行けない日。会社から与えられた夏休みを、適当に入れた。正直なところ、仕事のない日の過ごし方のほうが、ある意味ではしんどいのだけれど、体にガタが来ているのも事実。本当は、一日中体を動かさずに、自分の内部に逃避したいのではあるが、そうできない。

近所に、そのようにできる場所を知っていればいいのだけれど、生まれてからこの方、自分の地元というものに、まったく向き合ってこなかった。だが、いずれにせよここは慌ただしく浮き足立っているのが常だ。財政破綻寸前の美しい都。毎日どこからともなく修学旅行生がやってきて、一生の思い出とやらを探し回る。こんな所に、そんないいものはないから、よそに行ったほうがよい、なんて本当のことは言えない街。

排除アートとやらが、着々と浸透してきて、生きる場所が少なくなっていく。住みやすい街を作る人間が、街から住みやすさを排除する。わたしは排除された人間だ。わたしはここに住んではいない。わたしはどこにも住んでいない。

いや、実際には、毎晩雨風をしのぐことのできる場所で寝起きしている。しかしそれは、たかだか身体上の事実に過ぎない。わたしは、ここにいると、わたしの心のような、精神のような、形を持たない半分が締め出されているのを感じる。そちらの方が、重要だと思うのは、身体的に不自由がないからだろうか。 しかし、精神が締め出されているのなら、身体上のことは問題にならないのではないだろうか。

ま、こんなこと、考えてみても いたちごっこにしかならないか。

精神的に強くない人間が、強いように振る舞うための秘訣は、気にしないことだ。細かいことも、そうでないことも、その区別すらつけない。そのくらいにまで、身の回りのものごとに無関心になることだ。それで生きていけるかは、わからないけど。