白昼夢中遊行症

いまさらONKYOのGRANBEAT(中古品)を買う

中古品の「ONKYO GRANBEAT」を購入した。

ことの経緯はこうである。

      *

今月は仕事がないぶん、外でほっつき歩くことが多くなった。わたしは気になったことはすぐに調べないと気が済まない質で、歩きながら思いついたことを調べたり何やらしていたら、知らぬ間に通信制限のかかる通信量に達していた。

これはまずい。わたしは、現代っ子なので、インターネットに繋がっていないと不安になる。今月は仕事がほとんどない。仕事はほとんどないものの、平日は家にいてはいけないしきたりになっているので、休みだろうとなんだろうと、外で時間を過ごさないといけない。そんななか、何かが気になったときにそれを即座に調べたり、とにかくなんでもいいから有意味な文字列を見たくなったときなどに、インターネットにつながっていないとその欲求を満たすことができない。この手の欲求を即座に満たすことに慣れきった現代っ子のわたしは、それが失われることを、ひどく恐れていた。これはまずい。

そんなわけで、なんらかの手段によって対処する必要があった。どんな手段で? フリーWi-Fi? だめだ。これは「いつでも即座に」というわけにはいかない。フリーWi-Fiのある店に入り浸るとか、ネットカフェか何かに入り浸る、というのも考えたが、一処に居続けるのはなかなか苦手だし、けっこう金がかかるように思われた。実際のところはわからないけど。それに、ネットカフェに関しては、まったくの未知だった。馴染みのないところを、わたしはむやみに恐れる習性がある。では、自分が契約しているキャリアで、通信容量の買い増しをするのはどうか? しかし、なんだか割高のように思われた。

あんまり馴染みのないことは避けたい。割高なのもなんか嫌だ。そのうえで、いつでも即座に自分の欲求を満たすとなると、価格の安いMVNOと契約するのがいいのだろうと、ぼんやり思う。だが、自分の持っている携帯端末が他の回線や、その会社の回線でも他社で契約したものを受け入れるかどうかは不確かだ。それに、自分の番号に電話がかかってくる可能性もあるので、単に格安SIMを購入するのでは不十分だ。SIMカードを挿入することのできる何かが必要だ。モバイルルーターか、スマートフォンか。

ふつう、モバイルルーターを選択するだろう。目的に対して、果たす役割が必要かつ十分であるからだ。しかし、わたしはふつうではなかった。わたしはふつうではなかった。わたしは、余計なものを欲しがった。というか、以前からそれを、いつかは欲しいと思ってたのだ。そして、それはわたしの現在のニーズを満たすことができるものだった。それはスマートフォンで、SIMカードを2枚挿すことができる。2枚挿す必要はないが。テザリング可能なので、モバイルルーターとして利用することもできる。わたしは、わたしにしては異様に早い決断でamazonのカートに入れて、購入した。わたしはどうかしていた。

      *

というわけで、わたしの元には、ONKYOGRANBEATがある。中古品で、筐体には目に見える傷がいくつかあるが、構わない。電池にも大きな問題なさそうだ。イヤホンジャックの接点にも問題はない。使っているイヤホンのひとつとの接触が悪かったが、他のものを2,3試した限り問題はなく、おそらくイヤホン側、正確にはケーブルのプラグの問題だろう、ということになった。2.5mmのほうにも問題はない。SIMカードやSDカードも認識する。ソフトウェアのユーザビリティにもおおむね問題はない。音は、文句のつけようがない。

ああ、余計なものを買ってしまった。どう考えてもインターネットに接続するのなら、モバイルルーターの方がよい。むしろ、その点では大間違いの買い物をしてしまった。後々、やっぱりこれではだめかな、となると結局モバイルルーターを買ってしまうかもしれない。

だが、このGRANBEATという、他にはない唯一のスマートフォンが発しているなんともいえない魅力に、わたしは何年も取り憑かれていた。年月が過ぎ、この後に続くものが現れないことの確信が固くなるにつれ、その魅力はますます大きくなっていたように思う。そんな中、わたしは中古品で20,000で売られているそれを見つけたのだ。わたしはSIMカードの入る何かを探しており、それで口実は十分だった。

わたしは軽率だった。しかし、わたしは満足している。この満足が自分の誤りを覆い隠すためのものであることを、わたしは知っているが、それがどうした、とわたしはわたしに言う。わたしに相応しいのはこういう、どこかに突き抜けたものだ。優れているが、有用ではないものだ。いや、有用ではあるが、その有用性が少しずれているもの——物好きしか見向きしないものだ。わたしは物好きなのだろう。しかし金がないので、一足もふた足も遅く、そのうえで口実がないと、なかなかこうした必要のないものは買えない。わたしは、実際的な有用性を絶対的な価値と認めるわたしが、わたしのこの判断を大間違いだと嘖むのを聞く。しかし、たまにはこうしたことが、それも、こうも圧しつぶされて、押し除けられて生きているこの頃だからこそ、こうしたものが必要だ。そうだろう?