白昼夢中遊行症

断想

0:56 AM (10/11/22)1

1

もうすでにこんな時間だから、今日の記録は簡単なものにしておく。そもそも、とりたてて語るような出来事もない。

2

今日は仕事のある日だった。祝日だったらしく、朝の電車は空いていた。電車内では本を読んでいた。これなら、通信する必要がない。まあ、出勤時の電車内で本を読むのはいつものことだが。

3

わたしはなんの役にも立たないとされる本を読む。文学なんて、なんの役にも立たないので流行らない。みんなビジネス書か、自己啓発書か、ライトノベルか何かを読んでいる。あるいは何か、資格試験の教材とか。わたしはそうしたものを、まったく読まないというわけでもないが、少なくともビジネスに役立てるためにはビジネス書は読まないし、何かに気づくためには自己啓発書は読まない。こうした本のトレンドがふと気になって、興味本位で読むくらいだ。ライトノベルだけは、たまに軽い小説を読みたくなって、軽い小説を読むために読むことがあるが。

4

……あーなんか、話がよくわからん方向へ逸れている。もっと、今日わたしが見て、考えたことを書きたい。そうして満足して、なるべく遅くならないうちに眠りたい。

5

仕事には昼休みがあるが、食事をとるだけだと時間が余るので、通信制限のかかっている回線でも読むことのできる、青空文庫を見ていた。青野季吉「百万人のそして唯一人の文学」2という文章。これは、純小説と通俗小説について書かれた文章だが、わたしは知らず知らずのうちに、「小説」というところを「日記」に置き換えて読んでいた。「純日記」に対比される「通俗日記」なるものが、このインターネット上に溢れてきていて、それがあたかも普通の日記のように大手を振っている。インターネット上で日記を書こうという人のほとんどが、「通俗日記」の書き手であることを目指す。それに対して、「純日記」を書こうなんて人はいなくなった。……そんな読み方をしていると、自分もまた、この話の当事者のひとりのように思えてくる。しかし、わたしが書く日記というのは何なのだろうか。通俗的ではないだろう。しかし、純粋な日記かと言われると、どうだろう、そうでもない。ように思う。しかし、わたしが日記を書く心持に関していえば、わたしは「百万人の日記」をまったく問題にせず、まずもってわたし一人のために書いている。その点では、わたしが書くものも「純日記」に位置付けられるのかもしれない。とはいえ、そもそも「百万人のそして唯一人の文学」は小説に関して書かれたもので、日記に関するものではない。小説と日記は似ているかもしれないが、アナロジーはどこまで成り立つものなのだろうか。というか、自分の書くものが何であっても構わない。わたしはわたしの書きたいように書いて、勝手に苦しみ、勝手に救われる。いや救いもなにも求めていない。書きたいから書く。それだけだ。


  1. 日付が間違っていたので訂正。この記録は日付が変わって10月11日になってから書かれた、10月10日の記録なので、次のように訂正した。(正:“10/11/22"、誤:"10/10/22")【2022-10-11 16:06訂正】

  2. https://www.aozora.gr.jp/cards/001542/files/52214_46221.html