白昼夢中遊行症

断想

0:06 AM (10/13/22)

今日は仕事。午後にものすごい眠気に襲われ、30分か60分近く仕事にならなかった。日記を書くことは精神的な充実を与えてくれるが、そのために時間を取る必要があって、時間をどこから取るか、となると、どうしても睡眠時間から、ということになってしまう。困った。

定時で仕事場を抜け出して、喫茶店に寄る。コーヒーとケーキのセットを頼む。ここ最近は、遅い時間にカフェインを摂取する習慣がついており、それも睡眠時間を減らす一因になっているのかもしれない。パヴェーゼの『月と篝火』を昨日から読み始めている。昨日はまるで本が頭に入ってこなかったが、今日はまずまずだ。この話の空気感にも、だんだんと馴染みはじめてきた。わたしにとって本を読むことがどういうことなのか、わたしはなにを求めて、というか、わたしはなにが面白くて本を読んでいるのかということを、ここ最近、考えることがある。そのことについてなにかまとまったことを書くには、もう少し考える必要がある。

書くためにはある程度、あらかじめ考えないといけないと思うようになった。と、この言い方は少し違うか。なんだろう……こうかな。すでに自分の中で考え終えたことを書くべきだ。ということか。というのも、書くことは、思考に言葉という枠を与えてしまう。言葉になった時点で、言葉では言い表せない自由な部分が、すべて切り落とされてしまう。そういえば、そのことについて、田村隆一の有名な言葉があるではないか。

一篇の詩が生れるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ
——「四千の日と夜」より

あるいは高橋源一郎が、もっとはっきりとした言い方で、そんなことを言っていたと思うのだが、あいにく今は消灯しているから、その記述を探しに行くことはできない。

でもまあ、そういうことだ。一の言葉を発するために、千の言葉を殺さなければならない。だから黙っているべきである、というのは違う。しかし、いい加減な言葉を選んで、言葉とその精神を無駄死にさせてはいけない。

まだ生まれて間もない思考を、考えなしに言葉にしてしまったら、そこでその思考は死に、そこから広がることはなくなる。書くことによって考える、というのもあるのではないか? まあ、そういうのもある、ということは否定しない。否定はしないが、考えるために書いたとして、書き始めるまでどれくらい時間が経っているだろうか。それまでの間に、虚空で自分の思考とすこしも遊んでいないということはないのではないか? まずは沈黙のうちに頭の中で考え、そしてそれが短い言葉になり、短い言葉が溜まってきたら、それを積み木遊びのように、さまざまに並び替え組み合わせてみているうちに、それがあるべき姿がぼんやりと見えてくる。少なくとも、文章として書き始めるのは、そうしてぼんやりと形が見えてきてからではないか?

まあ、この話によって誰かを諭したいわけではないのだ。そうではなく、わたしは、書くことによって考える、ということを誤解していて、それによって色々と、自分の思考の新芽を刈り取ってしまったように思う。ある冴えたひらめきが奇跡が蒔いた種だとして、それに水をやり育てるのはわたしだ。もっとしっかり育てないといけない。思考を言葉にするのは、剪定のようなものだ。それは部分を切り落とすことによって、形を整える作業だ。また、そうすることによって、よりよい成長を促すものだ。しかし、何はともあれ、それをするのはある程度育ってからのこと。その時が来るまでは、静かに、愛情をもって育てなければならない。

わたしが日記をこんな夜中に、睡眠時間を削ってまで書かなければならない理由のひとつも、そこにある。つまり、書くためには、あらかじめ思考をある程度まで巡らせておかないといけない。その日考えたことを、言葉にしてもいいくらいにまで育つのを待つとなると、眠る直前まで、ということになるわけである。

さて、今日はまずまずだ。わたしは喫茶店を出て、自分の塒まで歩いていく。電車で一駅ぶん、夜の音を聞きながら。そうしたい気分だった。わたしはONKYOGRANBEATという、ポータブル・オーディオプレーヤーのおまけにスマートフォン機能がついたようなものを買って、最近はそれを持ち歩いているが、外で音楽を聴くことは、それも夜道を歩くときに音楽を聴くことは、依然としてまれである。それは危険だからというわけではなくて、その必要がないからだ。人が少なくなってくると、自然の音楽が聞こえる。最も聴く値打ちのあるものは、世界が奏でる音である。わたしはそれに耳を傾けて、自分の心を瞶めて、いつもの早足で、自分の眠るところへと歩みを進めていった。