白昼夢中遊行症

断想

今日は一日、歩かなかった。

歩きながら書かれた文章でなければ読む気がしない

ニーチェはそんなことを言ったらしく1、私も、同じように思うことがある。

この記録は、おもに私が読むためのものとして書かれている。そうなると、歩くことのなかった今日のような日の記録は、記録されるべきものなのだろうか。私は私が歩くことなく書いた文章を、読もうという気が起きないかもしれない。読まれない記録が、記録される必要は、あるのだろうか。

なんてことを考えたけれど、読まれるか読まれないかとか、読む値打ちがあるものかどうかとか、そんなことが前もって分かるはずがない。それに、その記録が読まれないとしても、記録をつけるということ自体に価値があるようにも思う。

ぼんやりとそう思うけれど、それ以上思考の中へ入っていくことが、今日の私にはできない。

ま、こんなことはよくあることだ。

考えごとを途中で持ち越したいときにも、そのことを記録しておくことは役に立つ。途中まで考えたことを記録したとして、ゲームのセーブデータを読み込むみたいに、後日まったくの続きから始める、なんてことはできないが、それを見て、同じことについて考え直すことはできる。何度も同じことを考えていれば、いつかはなにか、出来のいい説明がつけられるようになるんじゃないか。

つまるところ、記録することそのものの価値のひとつは、そのあたりにあると思うのだが、どうなんだろうね。

bounoplagia.hatenablog.com

べつに書き始めたとき、意識していたわけではないけれど、この記録は上の記録の考え直しになっている。


  1. 吉本隆明『真贋』(講談社文庫) にこんなことが書いてあった。つまり、又聞きの話ということになる。なので実際にそんなことを言っていたのかは分からない。《たとえば、歩きながら、いい考えが思いがけなく浮かぶことがあります。ニーチェの言葉に、「歩きながら書かれた文章でなければ読む気がしない」というのがありますが、まさにその通りだと思います。》(p. 82)