今日は一日、歩かなかった。
歩きながら書かれた文章でなければ読む気がしない
ニーチェはそんなことを言ったらしく1、私も、同じように思うことがある。
この記録は、おもに私が読むためのものとして書かれている。そうなると、歩くことのなかった今日のような日の記録は、記録されるべきものなのだろうか。私は私が歩くことなく書いた文章を、読もうという気が起きないかもしれない。読まれない記録が、記録される必要は、あるのだろうか。
なんてことを考えたけれど、読まれるか読まれないかとか、読む値打ちがあるものかどうかとか、そんなことが前もって分かるはずがない。それに、その記録が読まれないとしても、記録をつけるということ自体に価値があるようにも思う。
ぼんやりとそう思うけれど、それ以上思考の中へ入っていくことが、今日の私にはできない。
ま、こんなことはよくあることだ。
考えごとを途中で持ち越したいときにも、そのことを記録しておくことは役に立つ。途中まで考えたことを記録したとして、ゲームのセーブデータを読み込むみたいに、後日まったくの続きから始める、なんてことはできないが、それを見て、同じことについて考え直すことはできる。何度も同じことを考えていれば、いつかはなにか、出来のいい説明がつけられるようになるんじゃないか。
つまるところ、記録することそのものの価値のひとつは、そのあたりにあると思うのだが、どうなんだろうね。
べつに書き始めたとき、意識していたわけではないけれど、この記録は上の記録の考え直しになっている。