白昼夢中遊行症

断想

生きるということは、常に引き裂かれているということ。その痛みが、生きることそのものであるなら、やっぱりそれは死以外に解決してくれるものはない。だから、死は救済であると感じるのを、視野の狭さだとか、ペシミズムであるとか、自殺の肯定であるとか悪しき哲学だとかなんとか言うのは的外れだ。死は、ある意味では救済だろう。しかし、救われたって何にもならない。救いを求めて自殺をするのは、救われることの無意味さについてまで考えが至っていない、性急さによるものだ。

とかなんとか、まったくよくわからんことを考える私自身、救われることの無意味さについて考えたことはない。つねに自殺を考えている。とにかく、私が抱えている問題のいくつかは、死によってでしか解決しないように思われる、という話だ。

私は自分の考えを全き無論理のうちに持ち出すことがよくあるが、それが私の無意識の中でどのような論証を経てきたのか、全く見当がつかないのだ。だから、それに何とかして後付けの説明を加えようとするのだが、うまくいったためしがない。しかし、そうやって薄めてやらないと、ちょっとあくが強い。このまま、私の言葉を真に受けてしまった人が出てきてしまっては大変だ。いやまあ、これを読んでいる人がどれだけいるのかって話だけれど。この文章で私が言いたかったのは、最初の2文だけだったのだ。しかしそれだけだと単なる自殺予告かな、とか、かまってほしいのかな、みたいに思われてしまいそうで、それは嫌だから、そのあとに言い訳のようにいろいろと適当なことを並べ立てている。私の記録はそんなのばっかりだ。私は、ふと思い浮かんだことを記録するために「断想」と名の付く記録をつけ始めたのだが、いつの間にか、この「はてなブログ」に書くようになる前から、誰に遠慮しているのやら、一番言いたかった一言に無駄な弁明を付け加えたり、そもそもそれは言わずに、その周辺をうろうろしているような文章を書いてみたり、さらには、全く関係のないものを書いたりなんかしていた。

さて、元来の私の意図をくみ取るなら、これはもう「断想」と題するべきものではなくなってしまっているのだが、あえてこの記録もより新しい慣習に倣い「断想」としておこう。しかし、今後どうあるべきか、考えておく必要はあるだろう。明日にでも。いや、明日は仕事があるので明後日にでも。