白昼夢中遊行症

日暮而塗遠

こんな時間になって、まともに考え事できるわけがないだろう? しかも、考えることは、真実ではなく、真実なしにどのように騙くらかすかだ。

自分のことについて、何か判断を下したり、何か行動を起こしたりするに際して、なにかと時間がかかるうえに、頭がいまいち冴えないのは、毎回、その前段にひとつ余計な工程を入れずにいられないからだ。余計な工程というのは、今ここで自殺した方がいいのではないか、ということの検証だ。何を考えるにしても、何をするにしてもまず、死ぬことを退け、生きることを選んでから始まる。しかし、生きることを選んだ時点でもう、わたしはへとへとに疲れ切っている。もうそれ以上何も考えたくないし、考えられない。だから、結局のところ何も進展しない。実際には事はもっと入り組んでいるように思われるが、だいたいこんな感じで、私はいつも、いっぱいいっぱいなのだ。ならば、余計な工程を排除して仕舞えばよいではないのか? その通りだ。しかし、そうしようとしてできるなら、もうとっくにそうしている。それができないから、こうして悩みの種となっているのだ。私はほとんど常に、死んでしまった方が良いという考えにとらわれている。しかもそれは具体性を伴わないため、死を選ぶことですべてが完結するという展開を望むことはできない。いっそのこと本当に死んでしまったなら、あるいは毎回どっちに転ぶかわからないのなら、なにか生産性があるのかもしれないが、あいにくのこと、この二者択一は予定調和だ。まったく、なんの意味もない。そんなことを毎回毎回やっているのだから、何かの病気かもしれないが、こんなもの聞いたことがないし、病気にしては苦しみが生温いように思える。もっとも、病気をしたことがないので、病気というものがいかほどのものかわからないのだが。

ああ、こんなことにまたいらない時間を使ってしまって、死んでしまいたい。もうずっと、死んでしまいたい。私はいつも死んでしまいたい。どんな時も死んでしまいたいのだ。生きるが負けのこの人生、負け続けるのはもううんざりだ。これ以上生き恥をさらすくらいなら、死んでしまえ。一日に何度でも死ぬことについて考えたって良い。そんなことを言った覚えがあるけれど、考えなくて済むのなら、どう考えてもそのほうが良い。実際のところ、生きることしか与えられていないのだ。私は生と死の境を自分の足で踏み越えることのできぬ人間だ。だから、どうあっても生きることしか選べない。美しい一冊の詩集を出して死ぬ。なんてことは私にはできぬ。第一、美しい一冊の詩集を出すことからしてできない。私は一片の詩さえ書くことができない。もうこんなこと、やめにしようじゃないか。こんな話、してもしょうがない。私はいったい誰と話して、誰に提案しているのか。くそ、こんなことをしている暇はないのだ。随分と時間を無駄にしてしまった。私は何もできないでいる。ひとつの、きわめてはっきりとしたことをするのにも、こうした脱線をしないようにうまいこと自分の目をくらませないといけない。私は何もできていない。私は、この世にいつまで経っても適応できないでいる。私は私という意識の生まれた時から、ずっとこの世に対して余所者であるという感覚を抱き続けており、どうすれば内側に行くことができるのかを考え続けてはいるものの、いつまでもわからないでいる。これに関しては、何も考えずに足を踏み出すのではだめだ。一歩間違えればキリストか、あるいはテロリストか。どちらも私の望むものではない。しかしいまのところ、無策に突っ込めばそのどちらかにしかなれない。ああ、何を戯けたことを、おれは言っているのだろう。珍しく頭は冴えていて、目ははっきり見えるというのに、こんなことばかり。いつまでもいつまでも、話は終わらない。やらないといけないことが、いくつもあるのに、それ以外の全てのことに時間を費やしてばかり。やりたくないし、やる必要のないことに時間を費やすくらいなら、やる必要はないがやりたいことをやったほうがよっぽどましだと思わないか? 私は私の世界観しか持っていない。自分の中に、幾つもの世界を持つ人というのは、どういう気分なんだろうか。この世界はどのように見えているのだろう。私には私の景色しか見えない。私の景色とは何かといえば、この手のひらの中の端末に映るだけの世界だ。これが私の一切だ。そのほかには何もない。そして私は、私の持つ端末にコミュニケーション・ツールを入れないようにしているので、私の中に不意に他人が入り込んでくる、ということは起こらない。私は私の見たいもの、私に都合の良いものしか見ない。だから、他人が何を考えているのかわからない。わかるのは、今日の天気くらいだ。私の靴は、踵が擦り切れてしまって、雨が降るとすぐに水浸しになる。ああ、もうなんの話なんだ、これは。なんの話をしていたのだ?

こんな時間になって、まともに考え事できるわけがないだろう? しかも、考えることは、真理ではなく、真理なしにどのように騙くらかすかだ。

こう書き出したのが、ちょうど1時間前のことだ。まったく、この時の筆者の意図はわからないが、何かを考えようとしていたのだ。そうだ。私は上手に嘘をつく方法を考えていたのだ。上手に嘘をつけたら、ご褒美に飴玉をくれるわけではないけれど、とにかく必要があって嘘をつく練習をしているのだけれど、こんなこと、本当はしたくないのだ。しかし、しないといけないのだ。死ぬほど嫌なことをしないといけない状況に追い込まれているのだ。だから死にたいと考えるのだけれど。死ぬほど嫌なことをしたくないのは、それをすることが死に等しいと思うからで、他方死を選ぶことで訪れるのは死そのものだ。そうなると生きて、死ぬほど嫌なことをする方を選ぶに決まっているではないか。しかしそれでも割り切れぬ思いがあって、ひとつの嘘をつく前段階としてその100倍ほど、自分の中のものを何でもかんでも開陳しているのだ。そうしないことには、自分を許すことができない。どうやら私はそう思っているらしい。しかしいつまで経っても100には満たない。そもそも、100では足りない気がしている。ならば1,000、いや1,000,000か?なんにせよ、思い浮かぶことすべてをありのまま並べていけば、少なくともそれは真実だ。誤りがあったとしても、意図しないものは嘘ではない。私は、いつまでも喋り続ける。いつまでも、というのは言い過ぎだ。でもいつまでだろうか。たぶん理性で押さえつけなければ朝まで。ああ、でも押さえつけなければならない。夢が醒めなければならないのと同じように、言葉には終わりがつきものだ。ただ神の言葉だけが、無限の長さをもつ。文章は結末を用意しなくても、いつか終わるものだ。しかし結末を用意して書かれた文章に、私はなんの価値も認めない。たしかカフカがなんかそんなことを言っていたような、いや、言っていない。あいつは文章に結末をつけることは難しいよね、としか言っていない。しかしこの場合、どんな結末が望まれるのか。いや、結末なんてなくても終わりは来るから安心するといい。

さて、このあとわたしは眠るべきか、それとも本題に移るべきか。ここ何日も、本題に移ることなく、したがって何の進展もなく、ただ時間だけが過ぎていった。そうだ。ここまでやっても、なんの進展もないのだ。

なんの進展もない。私の人生にはなんの進展もない。そもそも目指す向きがない。ここに立って、周囲を見渡すのみ、いや、見渡すふりしているだけだ。

そうこうしているうちに、わたしの未来も死んでしまいそうだ。もうすでに息絶え絶えで、殺してやったほうがいいんじゃないかと、縁起でもないことを考えてしまうくらいだ。安楽死は安楽なのか。少なくとも首を吊るよりはましか。電車に飛び込むのは社会的に大きな損失を生むというのなら、安楽死を認めるべきではないかと、安直に思う。でもそう簡単な話ではないんでしょう? 知ってるよ。そうやって、でも具体的なことは何も教えてくれないんでしょう? おれ、しってる。

まったく碌でもねえんだ。こんなことばっかり時間をかけて、人様に胸張って言えるようなことは何ひとつしていない。この廿数年、夢なし、趣味なし、特技なし、資格も意気地も甲斐性もない。もひとつおまけに……言うことはない。おれはもう、こんなんなんだ。どうあっても、こんなのだ。それをどう偽れば、社会ってやつに通用するのだろう。偽ったところで、おれはこんなんだぜ、いつかボロが出て終いだ。こういろいろと並べ立てているけれど、何よりおれは、まともに生きようとしたことがないのだ。これがおまけだ。おれはまともに生きた試しなし。