白昼夢中遊行症

誰かの日記

自分というものを理解するという目的もあって、日記とかブログとか書いているのだが、一向にわからない。自分が思うこと、感じたこと、書きたいこと、自分の生活とか思想とか、そういうものを書きたいという思いはあるのだが、そういうことを書こうと思うと、何も言葉が出なくなる。ひどい場合、食べたものですら、素直に言うことができない。そうして言葉が詰まるとき、私の中には言いたいことがある、ようにも思われない。私の中には何もないのである。私は何も思わないし、感じない。書きたい文章・文体もなく、生活や思想もない。さらに言えば、そうしたものの欠如すらもない。つまり、何か思ったことを書こうとして言葉に詰まるとき、その思いが無いだけでなく、思うことが欠けている。自分でも今の私が何を言っているのか理解しがたいけれど、それは私が私を理解できていないからなのか、それとも、たんに私がまったく意味不明なことを言っているからなのか、わからない。理解できない私は、この文章を書いている私と同一の私なのだろうか。いや、そりゃそうだろう。私がこの文章を書いていて、その文章の中で「理解できない」と書いているのだから。本当にそうなのだろうか。

私は「私」という言葉が嫌いだ。こんなものがあるから、私は何かをし続けなければならないのだ。もしも私が存在しなければ、私が私である必要はなかったし、こうも「私とは何か」と問い続ける必要もなかったのだ。私は私にとっての私ではなく、誰かにとっての誰かでありたかった。ところが、「私」なんて言葉が存在しているから、私は一人称で話さなければならない。

私は、いつの間にか「自分というものを理解するという目的」を放棄するようなことを書き始めていることに気が付く。しかし、そのようなことを書き始めるのが私なのだろうか。私には、こうしたことを私が書いていると思われない。いや、ここで「思われない」のは本当は誰なのだろうか。わからない。ここらでいったん切り上げないとキリがないので、やめとこう。

なぜまたこんなことを書き始めたのかというと、ひさびさに他人のブログを読んで、面白かったからだ。他人のブログを読むのは面白い。ここでいうブログは、集合的無意識みたいなテンプレ1に冒さたものを除くが、とにかく、他人の書いた文章を読むというのは面白いものだ。どんなものであれ2、その人の為人がにじみ出ている。なにかキャラクター性を押し出して書かれたものは、その点ではつまらないけれど、その裏に見え隠れするその人自身を捉えることができれば面白くなる。なので、だいたいの文章は面白い。面白いと思いながら、自分の書くものには、こうしたものが欠けているよな、と思った。それとも、自分だから気づかないだけで、これを読んでいる誰かは、ここに私を認めているのかもしれないけれど。そうだとしたら、わたしとしてはそれは少し羨ましいことである。最初に言ったように、日記とかブログとか書いている理由のひとつは、自分探しのためだからだ。文章を書くのは旅に出るよりは自分探しの手段として真っ当だと思ったのだが、なかなかうまくいかないものだ。

ところで、自分の長所とか短所とかって、無いといけないものなんだろうか。やりたいことって本当に必要なのだろうか。世間はそれを強制しているように思えて、窮屈でならない。正直なところ、私にはやりたいことがない。だからといって、何もしないわけでもない。むしろ、そのときやっていることが、そのときの私がやりたいことである。それではだめだと、世間はいう。一体なぜなんだろうか。好き嫌いはだめだと言いながら、実際に求められるのは好き嫌いを臆面もなく主張する人間だってさ。なんじゃそりゃ。まったく意味わかんね。納得いかないことは多いが、無力な私はそれを受け入れるしかない。けれど、受け入れられないことは受け入れなくてよい、なんてことも聞く。そんな無責任な言い方って無いよな。それを真に受けて受け入れなかった人間は、世間に受け入れられないのだから。結局のところ、言葉を濁すしか無いのよな。そう考えると、政治家先生は生き方のプロだね。みんな是非とも参考にしよう。ああいう風に、なにごとも留保して、のらくら生きるのが賢いやり方だ。実際、あやつらはそれでお金もらって食っていっているわけだから。いや、何言ってんだろ、おれ。また何かに喋らされてしまった。これは「私」か? それとも……


  1. 極端な例でいえば「いかがでしたか」ブログと呼ばれるものだったり、まあ、その辺りのやつのこと。
  2. 「どんな」と言いながら、前述のテンプレに冒されたものは埒外に置いているけれど、そうしたものは誰かが書いたものとは言えない部分が多いので、理屈は通っているはず。(しらんけど)