白昼夢中遊行症

夢と現

「50, 60になってもこの仕事を続けていくことはできない」と、そう言うのを聞きながら、私はやはり、私のことを考えていた。私はどうか。この仕事をこの先10年20年も続けていけるだろうか。できないだろうな。といって、他のところでやっていけるかといえば、それも無理だ。無理だったから、私はここにいるのだ。流れ流れてのここで、私にはほかに行き場がないから、とにかく踏ん張るしかない。

私は少し、過大に評価されがちだと感じる。しかしそれは私の見栄張りな部分が、周囲にそう仕向けたというのもある。こんな見栄は捨てた方がよい。とは思うけれど、私はこうでもしないと自分の居場所を確保できない、という思いがあるのだろう。本当に、こんなくだらない思いは捨てた方がよい。私は、たいした人間ではないし、どちらかといえばどうしようもない人間だから、それなりの生き方を探すべきなのだけれど、自分の輪郭を誤魔化してばかりいては、それなりではなく無理のある生き方しかできないだろう。無理のある生き方で生をまっとうするのは無理だから、私はじきにやっていけなくなるだろう。

ともあれ、私は今日を生きねばならない。私は明日も生きねばならない。私がどうあるべきかは、生きることに意識的である限りは見失わないはずだ。自分の足で自分を支えることをやめなければ、なんとか生きていけるはずだ。

背負うのではなく、支えるでもなく、願うのだ。私がこれまで知り合った人たちが、なんとか自分自身を全うできることを。そしてそのためだけに生きること。それが私のあるべき生き方だと思う。ならばほかは偶発事にすぎない。私は与えられた仕事をする。とにかく、自分の役割を果たすのだ。夢とか目標なんていう幻に惑わされて生きるのはもうたくさんだ。そんな幻を押し付けようとするならずもの達に、私は私の人生を委ねはしない。私は私の現実を見て生きていくのだ。

なんて、私は夢を見ているのかもしれない。