白昼夢中遊行症

断想

「若いうちはやりたいことをやっていてもいいけど、やっぱり、歳をとってもそればかりやっているわけにはいかないと思う」とも言った。私はただ、頷いていた。私は人の話を聞くとき、口を挟まない。いや、私はもともとあんまり話さないんだっけか。私は人の話を聞くけれど、それで何かを思うことはない。そうなのか、と思う。事実関係が明確に間違っていて、そのことに私が気づいているなら、いやそうじゃない、と思うし、場合によっては口を挟むが、基本的に私は何も話さないし、何も思わない。

わたしが大学生だったころ、私を愚痴のはけ口としてよく利用していた人がいた。彼にとって私は、よい聞き手だったのだろう。わたしは彼の話を聞くけれど、そして頷くけれど、本当は肯定も否定もし難かった。わたしはその、口の標的となっている人たちについて、別段どうも思っていなかった。ただ、その人たちについての悪い評判ばかりを聞いていると、次第にそれが自分の意見のように思えてくる自分がいた。

わたし自身に、何も思うところがないがゆえに、わたしは簡単に、誰かの思想を受け入れすぎていたのかもしれない。わたしは空洞のままであるべきだったのかもしれない。

しかし空洞であるわたしにとって、やりたいこととは何だろうか? わたしは今の仕事を、やりたいこととして続けているわけではない。そこが、わたしとわたしを過大に評価する人の認識を分断しているのかもしれない。わたしは、いまの仕事が務まらなければ、もうどうにも生きていけないだろう、との思いで日々を生きているのだが、たぶん、わたしを過大に評価している人たちは、わたしが何か、わたしの欲求を満たすためにこの仕事をしているのだと思っているのだろう。実際、ここでは言えないけれど、わたしの仕事は趣味のようなものというか、遊びのようなものというか、いや、歴とした仕事ではあるのだが、「やりたいこと」にもなるのかもしれないのがこの仕事だ。仕事は緩く、(いや緩くはないのだが)そのぶん給料は安いし、成長につながらない。それでもわたしは手一杯で、しかしここでやっていけなくて、一体どこでやっていけるのか。

結局のところ、わたしがわたしのことばかりなのは、それ以外に気を配る余裕が全くないからで、つまりわたしの視野が狭く、無能な人間だからだ。

なんて、こんなことを書くつもりではなかったのだけれど、もともとどんなことを書くつもりだったのかも忘れてしまった。ただ、わたしは記憶していたいだけなのかもしれない。いや、それ以外に何があるのだろうか、わたしが文章を書く理由に。わたしは、今や少し前の記憶に基づく感情の機微を、なるべくそのままに記録しておくために、多少の文章の支離滅裂に目を瞑り、とにかくあらぬ方向へ進んでいくがままに書くのだ。話の主題は、いまや別のことへと移っている。このまま、もう少し書いてもいいし、今日はもうやめにして、眠ってしまうのもよい。そしてそんなことを言い出したのは、そろそろ眠たくなってきたからなので、もうこの記録はここで終了して、わたしは眠りに向かう。