白昼夢中遊行症

断想

必要とされずに、流れ流れてここにいるのがおれだ。ならば、今いるここで、誰かに必要とされたときには、それを煩わしく思うべきではない。むしろ、ありがたく思うべきだ。誰かに必要とされる限り、おれには使い道がある。そのときに限り、それは無用途人間ではない。

おれはおれの中になにかやりたいこと、やらなければいけないことを一切見出せないで、ここまで生きてきた。欲が無いことが美徳とされると思っていたから、そうしてきたまでだが、どうしてか、世間は何かと欲に塗れた人間を必要とするみたいだった。少し考えてみれば明らかで、この世界は欲に突き動かされて生きる人びとによって支えられているからだ。SGDsだって、それが金になりそうだからいま流行っているのだろう?

まあ、おれもおれで、まったく無欲な人間、というわけではないのだろうが、おれの中の欲望というのは、人間社会に適合したものではないのだろう。適合的な欲望を持った人は、それに従って生きればそれでうまく世間に溶け込める。しかしながら、適合しない欲を持った人が、それに従って生きたら、それは狂人か、ともすればテロリストになる。

しかし、人間というのはこの数千年ですっかり生き方を狭めてしまった。社会という、国ないし全世界に蔓衍する群れに属していないと生きられない。群れに属するというのは、それに適合的にならねばならぬということで、そのために、適合的でない欲望は捨てなければならない。そして、なんとか群れにとって、そこに置いておく値打ちがあるよう、虚実交えて見せかけないといけない。さもなくば、人間は生きていけない。