白昼夢中遊行症

夜桜を見に行きました

夜桜を見に行きました。

見ごろは四月の上旬とのことでしたが、すでに満開近く花開いているものも多くあり、たいそう絢爛でありました。

周囲にも、同じく夜桜を見にきたものが多くおりましたが、皆桜を見るというよりも、桜を撮るばかりのようにも見えました。

斯く言うわたしも、手持ちのスマートフォンで幾らか写真を撮っていました。むしろそちらに夢中で、あまり自分の目では桜を見られていなかったように思われます。

もっとゆっくり見ておればよかったと、すこし反省しております。

あまりにもひどい(花粉症)

花粉症って、こんなにしんどいものでしたっけ? これがあと2, 3ヶ月ほど続くと考えると、もう終わりじゃん、おれの人生。いや、もう終わってるんだったっけ。

いや、ほんとにひどい。この時期だけは、死んだほうがマシだと本気で思う。いや、ほんとに。だから打ち上げに失敗するようなロケットを作るより、この国の林業を立て直してくれ。そんなことを、深く考えもせず、頭ごなしに言ってみてしまうくらいにひどい。でも本当に、どうにかしてくれないと。この苦しみを、この国のほとんどの人が背負っているのだ。

今年は特にひどい気がする。それとも、毎年こんなんだったっけか。喉元過ぎれば熱さを忘れるのか。そんなことはどうでもいいか。とにかく今だ。いまここにある苦しみをいかんせん。

昼間の休憩はもう外に出ないで、食事もしないほうがいいのかもしれない。家の中でもマスクをつけたほうがいいのかもしれない。なるべく何もしないほうがいいのかもしれない。生きていないほうがいいのかもしれない。

ほんと、どうにかなってしまいそうだ。
おれの春を返してくれ。

断想

必要とされずに、流れ流れてここにいるのがおれだ。ならば、今いるここで、誰かに必要とされたときには、それを煩わしく思うべきではない。むしろ、ありがたく思うべきだ。誰かに必要とされる限り、おれには使い道がある。そのときに限り、それは無用途人間ではない。

おれはおれの中になにかやりたいこと、やらなければいけないことを一切見出せないで、ここまで生きてきた。欲が無いことが美徳とされると思っていたから、そうしてきたまでだが、どうしてか、世間は何かと欲に塗れた人間を必要とするみたいだった。少し考えてみれば明らかで、この世界は欲に突き動かされて生きる人びとによって支えられているからだ。SGDsだって、それが金になりそうだからいま流行っているのだろう?

まあ、おれもおれで、まったく無欲な人間、というわけではないのだろうが、おれの中の欲望というのは、人間社会に適合したものではないのだろう。適合的な欲望を持った人は、それに従って生きればそれでうまく世間に溶け込める。しかしながら、適合しない欲を持った人が、それに従って生きたら、それは狂人か、ともすればテロリストになる。

しかし、人間というのはこの数千年ですっかり生き方を狭めてしまった。社会という、国ないし全世界に蔓衍する群れに属していないと生きられない。群れに属するというのは、それに適合的にならねばならぬということで、そのために、適合的でない欲望は捨てなければならない。そして、なんとか群れにとって、そこに置いておく値打ちがあるよう、虚実交えて見せかけないといけない。さもなくば、人間は生きていけない。

もうだめだ(花粉症)

吐く息で、眼鏡が曇らないことに気がついたなら、もう春だ。いまが春であると認識した途端に、鼻水が止まらなくなり、目が痒くなってきた。これがなければ、春は素晴らしい季節なのだが。

国の偉い人は、そこんところ、どうかしてくれないかと思う。トマホークなんて買ってないで、杉林の使い道を考えてくれ。スギを憎んではいけない。それを安易に植えた人間の軽薄さを憎むのだ。安価な輸入木材に圧され、国内の林業は衰退してしまっているという。だが、使うために植えたのなら、使うまで面倒見るのが道理ではないのか? 植えっぱなしで、ほかに安いところが見つかったらほっぽり出すなんてのは人間のエゴだ。でもまあ、人間であるわたしが、人間のしたことの報いを受けるのは仕方のないことなのかもしれない。とはいえ、ほんとどうにかしてくれ。政治家の偉い人は、屋外で食事したことないのかもしれないが、わたしは昼間、毎日屋外で食事している。この季節はさすがに外には出たくないけれど、そこにしか行き場がないのだ。移動はすべて運転手付きの車のお金持ちには分からないかもしれないが、この季節、徒歩や自転車での移動というのは本当に堪える。どうにかしてくれ、頼むから。

2月が終わったらしい。

なんか、2月短くないですか?

でもたしかに、今週に入ってから昼間は暖かく、服を一枚減らしてもよいくらいの気温になった。それでも、朝晩は冷え込むので、まだ出かけるときには着込む必要があるけれど、やっぱり春が近づいているようだ。冬籠の虫も、そろそろ這い出てくるころだ。心なしか、目と鼻の調子がおかしくなってきた。

しかし、それにしても、2月って短くないだろうか。他の月と比べても、少なくとも2日くらい短い気がする。気のせいだろうか。ま、あんまり気にしなくていいか。

断想

「若いうちはやりたいことをやっていてもいいけど、やっぱり、歳をとってもそればかりやっているわけにはいかないと思う」とも言った。私はただ、頷いていた。私は人の話を聞くとき、口を挟まない。いや、私はもともとあんまり話さないんだっけか。私は人の話を聞くけれど、それで何かを思うことはない。そうなのか、と思う。事実関係が明確に間違っていて、そのことに私が気づいているなら、いやそうじゃない、と思うし、場合によっては口を挟むが、基本的に私は何も話さないし、何も思わない。

わたしが大学生だったころ、私を愚痴のはけ口としてよく利用していた人がいた。彼にとって私は、よい聞き手だったのだろう。わたしは彼の話を聞くけれど、そして頷くけれど、本当は肯定も否定もし難かった。わたしはその、口の標的となっている人たちについて、別段どうも思っていなかった。ただ、その人たちについての悪い評判ばかりを聞いていると、次第にそれが自分の意見のように思えてくる自分がいた。

わたし自身に、何も思うところがないがゆえに、わたしは簡単に、誰かの思想を受け入れすぎていたのかもしれない。わたしは空洞のままであるべきだったのかもしれない。

しかし空洞であるわたしにとって、やりたいこととは何だろうか? わたしは今の仕事を、やりたいこととして続けているわけではない。そこが、わたしとわたしを過大に評価する人の認識を分断しているのかもしれない。わたしは、いまの仕事が務まらなければ、もうどうにも生きていけないだろう、との思いで日々を生きているのだが、たぶん、わたしを過大に評価している人たちは、わたしが何か、わたしの欲求を満たすためにこの仕事をしているのだと思っているのだろう。実際、ここでは言えないけれど、わたしの仕事は趣味のようなものというか、遊びのようなものというか、いや、歴とした仕事ではあるのだが、「やりたいこと」にもなるのかもしれないのがこの仕事だ。仕事は緩く、(いや緩くはないのだが)そのぶん給料は安いし、成長につながらない。それでもわたしは手一杯で、しかしここでやっていけなくて、一体どこでやっていけるのか。

結局のところ、わたしがわたしのことばかりなのは、それ以外に気を配る余裕が全くないからで、つまりわたしの視野が狭く、無能な人間だからだ。

なんて、こんなことを書くつもりではなかったのだけれど、もともとどんなことを書くつもりだったのかも忘れてしまった。ただ、わたしは記憶していたいだけなのかもしれない。いや、それ以外に何があるのだろうか、わたしが文章を書く理由に。わたしは、今や少し前の記憶に基づく感情の機微を、なるべくそのままに記録しておくために、多少の文章の支離滅裂に目を瞑り、とにかくあらぬ方向へ進んでいくがままに書くのだ。話の主題は、いまや別のことへと移っている。このまま、もう少し書いてもいいし、今日はもうやめにして、眠ってしまうのもよい。そしてそんなことを言い出したのは、そろそろ眠たくなってきたからなので、もうこの記録はここで終了して、わたしは眠りに向かう。

夢と現

「50, 60になってもこの仕事を続けていくことはできない」と、そう言うのを聞きながら、私はやはり、私のことを考えていた。私はどうか。この仕事をこの先10年20年も続けていけるだろうか。できないだろうな。といって、他のところでやっていけるかといえば、それも無理だ。無理だったから、私はここにいるのだ。流れ流れてのここで、私にはほかに行き場がないから、とにかく踏ん張るしかない。

私は少し、過大に評価されがちだと感じる。しかしそれは私の見栄張りな部分が、周囲にそう仕向けたというのもある。こんな見栄は捨てた方がよい。とは思うけれど、私はこうでもしないと自分の居場所を確保できない、という思いがあるのだろう。本当に、こんなくだらない思いは捨てた方がよい。私は、たいした人間ではないし、どちらかといえばどうしようもない人間だから、それなりの生き方を探すべきなのだけれど、自分の輪郭を誤魔化してばかりいては、それなりではなく無理のある生き方しかできないだろう。無理のある生き方で生をまっとうするのは無理だから、私はじきにやっていけなくなるだろう。

ともあれ、私は今日を生きねばならない。私は明日も生きねばならない。私がどうあるべきかは、生きることに意識的である限りは見失わないはずだ。自分の足で自分を支えることをやめなければ、なんとか生きていけるはずだ。

背負うのではなく、支えるでもなく、願うのだ。私がこれまで知り合った人たちが、なんとか自分自身を全うできることを。そしてそのためだけに生きること。それが私のあるべき生き方だと思う。ならばほかは偶発事にすぎない。私は与えられた仕事をする。とにかく、自分の役割を果たすのだ。夢とか目標なんていう幻に惑わされて生きるのはもうたくさんだ。そんな幻を押し付けようとするならずもの達に、私は私の人生を委ねはしない。私は私の現実を見て生きていくのだ。

なんて、私は夢を見ているのかもしれない。